一汁一菜と雑穀飯の夕食を馳走になり、炉を挟んで裟弥と向かい合った。
春の宵はまだ寒い。時折、どこからともなくすきま風が忍びこむ。私は炉の焚き火に手をかざした。
世間には、在家の裟弥のことを蝮《まむし》と呼び、蛇蝎《だかつ》の如く嫌う人もいた。世を捨てて仏と暮らすとは言いながら、世を遁《のが》れればなにをしても自由だとばかりに傍若無人に振舞う手合いが多いからだ。銭で購《あがな》った遊女を山里の庵に住まわせ、女遊びに耽る者も少なくなかった。
彼は違った。
彫りの深い顔立ちは鋭く引き締まり、今こうして向かい合っている時も厳しく自己を刻み続けている様子が看て取れる。妥協も弁解も許さないなにかが彼のなかにみなぎっていた。眉間にすっと縦に二本並んだ深い溝も、鋭くそそりたった耳も、黒々とした太い眉も、すべてが峻厳だ。彼と向かい合うだけで、心が引き締まるようだった。
孤高。
この二文字が脳裏に浮かんだ。宮廷で高位まで昇ったひとかどの人物かもしれないと思いながら名を尋ねたが、
「よいではありませんか」
と、穏やかに首を振るだけで答えない。世捨て人の名を聞いてもはじまらないでしょうとでも言いた気に。再び世間へ引きずりこまれるのを拒むように。
「静かでよいところですね」
私は部屋を見渡した。なにも飾らない囲炉裏の間だった。板壁は煤けて黒ずんではいるものの、みすぼらしくは見えない。ただひそやかな祈りと瞑想だけが壁にしみこんでいる。焚き火が軽やかに爆ぜ、乾いた音を立てた。
「なにもないところですから」
裟弥は何気なく答える。
「ここへこられてどれくらいになるのでしょうか」
「かれこれ十年ほどになりますかな」
「素晴らしい暮らしですね。最高の贅沢のように思えます」
私はここでの暮らしを想像してみた。人里離れたこんな山奥でなら、人生の憂鬱から解放され、生きいきと生きられるかもしれない。周りの目ばかり気にして自分の気持ちや心に思った疑問を押し殺し、周囲から浮き上がってしまわないようにたえず神経をすり減らすこともないだろう。人に怯えながら過ごし、消え入りたい気持ちになることもないだろう。
「みな、そのように言います。私も初めはそう思い世を遁れました。ですが、家族の反対を押し切って遁世してみたものの、ここへ移り住んだ当初はなかなか大変でした。とんでもない所へきてしまったと悔やみ、いっそ京の町へ戻ろうかと悩んで毎晩眠れないほどです。なぜだかおわかりですか?」
裟弥はそう問いかけ、白湯を一口すすった。
「山の生活に慣れないからでしょうか」
私は首を傾げた。
「それもあります」
「やはり、人恋しくなるからでしょうか」
「それもあります」
「ほかには思いつきませんが――」
「一言で言えば、己が怖くなるのです」
裟弥は湯のみを置き、じっと私の目を見つめた。どこまでも澄んだ、だが力のこもったまなざしだった。
「ここの暮らしにも慣れ、人恋しさも断ち切り、ほかの在家の裟弥との付き合いも遠慮してやっと独りきりになれたと思ったら、ちょうど澄んだ池の底にたまった枯葉や倒木や泥が見えるように、己の心にたまった恐ろしい欲望や邪念や、過去に犯した罪業の数々が見えすぎるほど見えるようになるのです。そんなどろどろとしたどす黒い心や己の犯した過ちは正視するに耐えません。
若い頃、私は部下のささいな失敗にひどく怒り、これでもかとばかりにすさまじい剣幕でなじったことがありました。
軽く注意すればそれで済むことでしたが、ちょうどその時、虫の居所が悪かったこともあって八つ当たりをしてしまったのです。宮仕えで窮屈な思いをしていた鬱憤が堰を切ったように溢れ出てしまい、そのすべてを彼にぶつけてしまいました。
ずいぶん昔のことなので、私自身、そんなことはすっかり忘れていたのですが、ここで読経と座禅の毎日を送っているうちに、突然、池の底から浮かび上がるようにしてそのようなことが思い出されたのです。あの時、彼は今にも首を吊ってしまいそうなほど悲しい顔をしていました。彼には遠くおよばない高い身分である私に口答えするわけにもいかず、ただ顔を蒼ざめさせ、身の置き所もないように唇をわななかせていました。内心、憤りと不安で心が引き裂かれそうだったことでしょう。実際、彼は体調を崩してしばらく仕事を休む羽目に陥ってしまいました。そんな彼の顔が日毎夜毎に浮かんでは、私の心を苦しめました。いえ、こんな言い方は傲慢ですね。もちろん、私の咎《とが》です。私自身が作った過ちです。自分の過ちで自分が苦しむのは当然のことでしょう。そのことばかりではありません。あれもこれもとさまざまことが思い出されては、良心の呵責に苦しみました。私の心は白洲へ引き出されたようでした。
そうかと思えば反対に、昔受けた小さな恥辱を思い出し、憤怒の塊と化してしまうこともありました。恥辱といってもたいしたことではありません。たわいもないからかいの言葉やつまらない人が言った心ない一言に過ぎません。ですが、それが大きな蛇のようになって心をのたうちまわるのです。心のなかで暴れているのです。一番やりきれないのは己です。そんな自分がやりきれなくなります。
世を捨てれば、心が浮かび上がります。なにものにもかえがたい大切な己の心がです。しかし、その心がいかに汚れているか、世俗の暮らしのなかで省みることはありません。まれにそうすることがあったとしても、雑事にまぎれてすぐに忘れてしまいます。汚れた自分を突きつけられて、私は参ってしまったのですよ」
裟弥はやはり、わかりますかと問いかけるように私を見つめる。
「そうなのですか――。私はてっきり、このようなところで仏三昧の暮らしをすればなにもかもが――」
私は落胆してしまった。
「解決すると思っていましたか?」
「はい」
「問題から逃げることはできます。気儘《きまま》に暮らそうと思えば、できないことはありません。現に多くの在家の裟弥がそうしています。ほどほどにお勤めをして、ほどほどに参禅して、あとはのんびり時間を楽しむ。そんな隠居暮らしです。私はそれを責めようとも非難しようとも思いません。彼らは彼らで息苦しい俗世を遁れ、ほっと一息ついている訳ですからそれも一つの生き方でしょう。ですが、ほんとうに仏の道を行じたいと思えば、この世の苦しみから遁れたいと思えば、つらいことを乗り越えなくてはなりません」
「どうやってそれを乗り越えられたのですか」
「私は乗り越えてなどいません。まだ迷いのなかにいます」
「そうおっしゃられますが、ずいぶん落ち着いておられるようにお見受けいたします」
「そう見えるだけですよ。心の中では今でも苦しみが渦を巻いています」
裟弥は頭を振った。
「ただ、ここへ移り住んだ当初に比べればずいぶん楽にはなりました」
「そこをお伺いしたいのです。どうやって楽になられたのでしょうか」
「ひたすら、己の心を正視し、仏を見つめました」
「それだけですか?」
「ええ、それだけです。しかしさっきも申し上げたとおり、外から見れば簡単なように見えて、その実、なかなか容易なことではないのです。よほどの決心と我慢強さがなければ、できることではありません」
「簡単にはゆかないのですね」
私は膝元に目を落とし、ため息をこらえた。悲しい風が心を吹き抜ける。我知らず目の潤んでしまうのが自分でもわかった。
「どうかしましたか」
「いえ、なんでもありません」
「この侘び住まいの庵には、時折誰にも言えない悩みを抱えた方がこられ、言うに言えない悩みを打ち明けていかれます。私は慣れておりますから、もしよければどうぞご遠慮なくおっしゃってください。ここで聞いたことは誰にも話しません」
裟弥の声はただひたすら穏やかだった。
私は膝に乗せた拳をぎゅっと握り締め、なにも答えなかった。答えられなかった。今出会ったばかりの裟弥にあのような話をすれば迷惑だろうと逡巡《しゅんじゅん》し、やはり知られたくないという思いが覆いかぶさる。心は冷たい霧につつまれたみたいだ。暗くて、じめじめする。
その一方で、なにをためらっているのだと心のなかで叫ぶ自分もいた。
もう一人の私は、たとえ恥ずかしい思いをしたとしても話してしまおうと私に向かって呼びかける。彼なら、冷笑を浮かべたり嘲ったりして自分を傷つけない。突飛な話に思えても、それなりに受け止めてくれる方に違いない。さっさと話してしまえよと。
私はそっと目を閉じた。
(続く)
春の宵はまだ寒い。時折、どこからともなくすきま風が忍びこむ。私は炉の焚き火に手をかざした。
世間には、在家の裟弥のことを蝮《まむし》と呼び、蛇蝎《だかつ》の如く嫌う人もいた。世を捨てて仏と暮らすとは言いながら、世を遁《のが》れればなにをしても自由だとばかりに傍若無人に振舞う手合いが多いからだ。銭で購《あがな》った遊女を山里の庵に住まわせ、女遊びに耽る者も少なくなかった。
彼は違った。
彫りの深い顔立ちは鋭く引き締まり、今こうして向かい合っている時も厳しく自己を刻み続けている様子が看て取れる。妥協も弁解も許さないなにかが彼のなかにみなぎっていた。眉間にすっと縦に二本並んだ深い溝も、鋭くそそりたった耳も、黒々とした太い眉も、すべてが峻厳だ。彼と向かい合うだけで、心が引き締まるようだった。
孤高。
この二文字が脳裏に浮かんだ。宮廷で高位まで昇ったひとかどの人物かもしれないと思いながら名を尋ねたが、
「よいではありませんか」
と、穏やかに首を振るだけで答えない。世捨て人の名を聞いてもはじまらないでしょうとでも言いた気に。再び世間へ引きずりこまれるのを拒むように。
「静かでよいところですね」
私は部屋を見渡した。なにも飾らない囲炉裏の間だった。板壁は煤けて黒ずんではいるものの、みすぼらしくは見えない。ただひそやかな祈りと瞑想だけが壁にしみこんでいる。焚き火が軽やかに爆ぜ、乾いた音を立てた。
「なにもないところですから」
裟弥は何気なく答える。
「ここへこられてどれくらいになるのでしょうか」
「かれこれ十年ほどになりますかな」
「素晴らしい暮らしですね。最高の贅沢のように思えます」
私はここでの暮らしを想像してみた。人里離れたこんな山奥でなら、人生の憂鬱から解放され、生きいきと生きられるかもしれない。周りの目ばかり気にして自分の気持ちや心に思った疑問を押し殺し、周囲から浮き上がってしまわないようにたえず神経をすり減らすこともないだろう。人に怯えながら過ごし、消え入りたい気持ちになることもないだろう。
「みな、そのように言います。私も初めはそう思い世を遁れました。ですが、家族の反対を押し切って遁世してみたものの、ここへ移り住んだ当初はなかなか大変でした。とんでもない所へきてしまったと悔やみ、いっそ京の町へ戻ろうかと悩んで毎晩眠れないほどです。なぜだかおわかりですか?」
裟弥はそう問いかけ、白湯を一口すすった。
「山の生活に慣れないからでしょうか」
私は首を傾げた。
「それもあります」
「やはり、人恋しくなるからでしょうか」
「それもあります」
「ほかには思いつきませんが――」
「一言で言えば、己が怖くなるのです」
裟弥は湯のみを置き、じっと私の目を見つめた。どこまでも澄んだ、だが力のこもったまなざしだった。
「ここの暮らしにも慣れ、人恋しさも断ち切り、ほかの在家の裟弥との付き合いも遠慮してやっと独りきりになれたと思ったら、ちょうど澄んだ池の底にたまった枯葉や倒木や泥が見えるように、己の心にたまった恐ろしい欲望や邪念や、過去に犯した罪業の数々が見えすぎるほど見えるようになるのです。そんなどろどろとしたどす黒い心や己の犯した過ちは正視するに耐えません。
若い頃、私は部下のささいな失敗にひどく怒り、これでもかとばかりにすさまじい剣幕でなじったことがありました。
軽く注意すればそれで済むことでしたが、ちょうどその時、虫の居所が悪かったこともあって八つ当たりをしてしまったのです。宮仕えで窮屈な思いをしていた鬱憤が堰を切ったように溢れ出てしまい、そのすべてを彼にぶつけてしまいました。
ずいぶん昔のことなので、私自身、そんなことはすっかり忘れていたのですが、ここで読経と座禅の毎日を送っているうちに、突然、池の底から浮かび上がるようにしてそのようなことが思い出されたのです。あの時、彼は今にも首を吊ってしまいそうなほど悲しい顔をしていました。彼には遠くおよばない高い身分である私に口答えするわけにもいかず、ただ顔を蒼ざめさせ、身の置き所もないように唇をわななかせていました。内心、憤りと不安で心が引き裂かれそうだったことでしょう。実際、彼は体調を崩してしばらく仕事を休む羽目に陥ってしまいました。そんな彼の顔が日毎夜毎に浮かんでは、私の心を苦しめました。いえ、こんな言い方は傲慢ですね。もちろん、私の咎《とが》です。私自身が作った過ちです。自分の過ちで自分が苦しむのは当然のことでしょう。そのことばかりではありません。あれもこれもとさまざまことが思い出されては、良心の呵責に苦しみました。私の心は白洲へ引き出されたようでした。
そうかと思えば反対に、昔受けた小さな恥辱を思い出し、憤怒の塊と化してしまうこともありました。恥辱といってもたいしたことではありません。たわいもないからかいの言葉やつまらない人が言った心ない一言に過ぎません。ですが、それが大きな蛇のようになって心をのたうちまわるのです。心のなかで暴れているのです。一番やりきれないのは己です。そんな自分がやりきれなくなります。
世を捨てれば、心が浮かび上がります。なにものにもかえがたい大切な己の心がです。しかし、その心がいかに汚れているか、世俗の暮らしのなかで省みることはありません。まれにそうすることがあったとしても、雑事にまぎれてすぐに忘れてしまいます。汚れた自分を突きつけられて、私は参ってしまったのですよ」
裟弥はやはり、わかりますかと問いかけるように私を見つめる。
「そうなのですか――。私はてっきり、このようなところで仏三昧の暮らしをすればなにもかもが――」
私は落胆してしまった。
「解決すると思っていましたか?」
「はい」
「問題から逃げることはできます。気儘《きまま》に暮らそうと思えば、できないことはありません。現に多くの在家の裟弥がそうしています。ほどほどにお勤めをして、ほどほどに参禅して、あとはのんびり時間を楽しむ。そんな隠居暮らしです。私はそれを責めようとも非難しようとも思いません。彼らは彼らで息苦しい俗世を遁れ、ほっと一息ついている訳ですからそれも一つの生き方でしょう。ですが、ほんとうに仏の道を行じたいと思えば、この世の苦しみから遁れたいと思えば、つらいことを乗り越えなくてはなりません」
「どうやってそれを乗り越えられたのですか」
「私は乗り越えてなどいません。まだ迷いのなかにいます」
「そうおっしゃられますが、ずいぶん落ち着いておられるようにお見受けいたします」
「そう見えるだけですよ。心の中では今でも苦しみが渦を巻いています」
裟弥は頭を振った。
「ただ、ここへ移り住んだ当初に比べればずいぶん楽にはなりました」
「そこをお伺いしたいのです。どうやって楽になられたのでしょうか」
「ひたすら、己の心を正視し、仏を見つめました」
「それだけですか?」
「ええ、それだけです。しかしさっきも申し上げたとおり、外から見れば簡単なように見えて、その実、なかなか容易なことではないのです。よほどの決心と我慢強さがなければ、できることではありません」
「簡単にはゆかないのですね」
私は膝元に目を落とし、ため息をこらえた。悲しい風が心を吹き抜ける。我知らず目の潤んでしまうのが自分でもわかった。
「どうかしましたか」
「いえ、なんでもありません」
「この侘び住まいの庵には、時折誰にも言えない悩みを抱えた方がこられ、言うに言えない悩みを打ち明けていかれます。私は慣れておりますから、もしよければどうぞご遠慮なくおっしゃってください。ここで聞いたことは誰にも話しません」
裟弥の声はただひたすら穏やかだった。
私は膝に乗せた拳をぎゅっと握り締め、なにも答えなかった。答えられなかった。今出会ったばかりの裟弥にあのような話をすれば迷惑だろうと逡巡《しゅんじゅん》し、やはり知られたくないという思いが覆いかぶさる。心は冷たい霧につつまれたみたいだ。暗くて、じめじめする。
その一方で、なにをためらっているのだと心のなかで叫ぶ自分もいた。
もう一人の私は、たとえ恥ずかしい思いをしたとしても話してしまおうと私に向かって呼びかける。彼なら、冷笑を浮かべたり嘲ったりして自分を傷つけない。突飛な話に思えても、それなりに受け止めてくれる方に違いない。さっさと話してしまえよと。
私はそっと目を閉じた。
(続く)