小説を読むのも、小説を書くのも、自分という存在を治癒するためにやっていることなのだろうなという気がする。
物語を読むこと、そして、それだけでは物足りないから、自分でもつたない物語を綴り、そうしてなんとか自分の魂をなにかにフィットさせようとしているのだろう。面白い小説を読めば、自分の心が洗われたり、こんな考え方もあったのかと気づかされたり、深く考えさせられたりする。小説を書けば、どうやって文章にすればいいのだろうと考えているうちに、自分の考えがまとまってくる。自分なりにうまく書けたなと思うときは、心がすっきりする。
日常生活のなかでは、生活の糧を得るために、あるいは己の欲望を満たすために日々躓く。自分ではごくありきたりに生きているつもりでも、自分の心に深く問いかけてみれば、ささいな悪や罪を積み重ねている。「すべては金のため」だとか「楽しければそれでいい」などと割り切れば楽なのかもしれないけど、そうもいかない。若いうちはそれでもいいのだけれど、そんなふうな考えを長年続けていると、そのうち心が狂ってしまう。そんな人を何人も見てきた。なんの考えもなしに流されてしまうと、どうしてもそうなってしまうものなのかもしれない。悲しいことだと思う。やはり、人間として生かされてあるのだから、人間性を捨てるわけにはいかない。
小説を読んだり書いたりして、傷ついた心をなだめ、心に沁みこんだ毒を抜き、心が狂ってしまわないようにしているのだろう。読書も執筆も、存在論的な治癒行為なのだろう。
(2013年11月30日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第272話として投稿しました。
『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/