若い頃、フィレンツェへ旅行してジプシーに襲われたことがある。街をぶらぶら歩いていると、道端でたむろしていたジプシー女三人がいきなり「きゃー」と奇声をあげて僕を取り囲んだ。ジプシー女は腕を取ったり、リュックを引っ張ったり、足を触ったりしてくる。
――財布をすりにきたな。
そう思った僕は、「この野郎っ!」と叫びながら、ジプシー女を押しのけて脱出した。さいわい、なにもすられずに済んだ。
僕の同級生に、イタリアへ結婚旅行しに行ったカップルがいた。イタリアで結婚式を挙げて、そのままイタリアで新婚旅行する。なんともロマンティックな話だ。無事に式を終えてフィレンツェへ行ったのまではよかったのだが、彼らもおなじようにジプシーに襲われた。その時、いきなり襲撃されてわけのわからなくなった同級生は新妻を捨ててひとり脱出し、彼の新妻は自力でジプシーから抜け出した。なにも取られずに、けがもせずに無事だったのだけど、
「あなたは私を守ってくれなかった」
と、同級生の奥さんはとても悲しそうだった。新婚旅行でそんなことになったらさぞショックだろう。
フィレンツェは非常に美しい街だけど、ジプシーはいささか厄介だ。僕は周囲を見張りながら家内の手をつないでフィレンツェの街を歩いた。
フィレンツェはあちらこちらに博物館がある。適当に街をぶらつきながら、何箇所か博物館へ入った。様々な彫像や彫刻が展示してあったけど、僕はいろんな人物を描写したレリーフがいちばん興味深かった。職人を描いたのが多くて、その作業の様子が面白かった。教会もたくさんあるから、通りすがりの教会へ入ったりもした。どの教会もなかは荘厳に飾ってあるので見ごたえがある。大聖堂のすぐそばに建っている塔に登ると、フィレンツェの美しい街並みを一望できた。
街を歩いていると、白装束の異様な人が歩いている。顔もまっしろに塗りたくって、まるで歩く大理石の彫像のようだ。
――ジプシーだ。
僕は家内の手を引っ張って、彼らの反対側を歩くようにした。白装束もジプシーの作戦だ。そうやって観光客の気を引いて、まずは握手を求める。そして、ハグしたりしながら、お金をねだったり、財布をすったりするのだ。家内には、ジプシーがいかにして悪さするのかをレクチャーしておいたのだけど、家内は陽気な性格の人だから握手してと手を差し出されれば、握手してしまうかもしれない。そうなるとあとが面倒だ。
そうして何度かジプシーと距離をとるようにした。白装束のジプシーの道の反対側へ行ってほっと息をついた瞬間、目の前に別の白装束が現れた。
――うわっ。
虚を突かれて僕はあせった。
太っちょのおばちゃんジプシーだ。ジプシーはほほえみながらおどけた仕草で手を差し出す。家内は案の定、面白いなあという感じできゃははと笑う。そのまま握手してしまいそうだ。
僕は家内の手を引き、ダッシュして逃れようとした。あまりに急ぎ過ぎたので、家内の胸にかけていたサングラスがぽとりと落ちた。ジプシーは落ちたサングラスを指してあははと笑う。僕は急いでサングラスを拾った。
ジプシーに一本取られてしまった。
(2016年8月15日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第370話として投稿しました。
『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/