高校生の頃、ヒューマニズムという言葉の意味は「人道主義」のことだと思っていた。わかりやすくいえば、やさしさや愛情といったものを大切にしましょうということだ。いうまでもなく、飢餓に襲われた遠い国の子供たちへの支援活動やホームレスの人たちへの炊き出しといった各種のボランティア活動はこの人道主義に根ざしている。
テレビドラマの『金八先生』シリーズはこの意味でのヒューマニズムにあふれている。『金八先生』の世界には必ず救いがある。たとえ生徒が問題を起こしたとしても、金八先生は「君はまだ人間として未熟なだけなのだから人生の勉強を積みなさい」と諭し、がんばれと励ます。金八先生は、自分の生徒は全員、彼らが成長したあかつきには人として素晴らしい存在になると信じている。言い換えれば、すべての人間をやさしさと理性を持った存在とみなし、全幅の信頼を寄せるということだ。
その後、ヒューマニズムには「人間中心主義」という意味もあるのだと知った。
この人間中心主義は、神も仏もいるものかという一種の無神論だ。つまり、人間こそがこの世界の主であり、神であるという考え方だ。近代が始まってから、この考え方がひろまり、神さまや仏さまはどこかへ押しやられてしまった。
人間中心主義が広まった裏には、それを必要とした時代の背景がある。神さまに縛られていたのではなにもできない。より正確に言えば、神さまを大義名分にしてこの世を支配しようとする宗教界に縛られたのでは、真実を見極めることも、自由に活動することもできなくなってしまう。ちょうど、地動説を唱えたがために教会から有罪判決を受け、監視つきの邸宅に閉じこめられてしまったガリレオのように。
宗教界からの縛りを解くことで、人間の活動の幅はぐっと広がり、近代科学の飛躍的な発展につながった。
ただ、この人間中心主義という考え方は一歩間違えればとんでもないことになる非常に危険なものを含んでいる。もし人間が神のような全知全能の存在や仏のような慈悲のかたまりのような存在になれるのならそれに越したことはないのだけど、人間がそんなふうになれるかと問われたら「否」としか答えようがない。
『カラマーゾフの兄弟』の主人公の一人であるイワン・カラマーゾフは「神がいなければすべては許される」と言った。つまり、殺人も許される――罪にならないということだ。こんなふうに人間中心主義という考え方をおし進めれば、人間から理性ややさしさを引っこ抜いてしまうことにもつながりかねない。人間から理性ややさしさを引っこ抜いてしまうということは、人間が動物化してしまうということだ。そうなれば、王様気取りの勘違いした動物ばかりが我が物顔でうろつくことになる。
ヒューマニズムは諸刃の剣だ。
ヒューマニズムによって、人間は自由を得た。人間の可能性が大幅に広がった。だけど、人間であることの条件を考えなければ、容易に一個の野獣と化してしまい、自分が誰かを食い物にしたり傷つけてしまったとしても、それを自覚することができなくなってしまう。僕が子供の頃は、「人としてそんなことをしてはいけない」とよくたしなめられたものだったけど、そんな言葉はもう死語になってしまったようだ。
人間を理性とやさしさを持った人間たらしめるものはなんなのだろう? ほんとうの意味で人間を人間たらしめるものはいったいなんなのだろう?
その答えは人それぞれだろうけど、僕自身だけではとても自分の理性ややさしさを保つ自信はないから、神さまや仏さまやお天道さまといった超越的な存在しか思い浮かばない。そういったものが自分を支えてくれているからこそ、時には過ちを犯したり、人を傷つけてしまったりしながらでも、理性ややさしさをなんとかまったく失わずにすんでいるのだと思う。狂った世の中でまっすぐ立って歩くためには、今のところそれしか思いつかない。
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第43話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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