負けられない
「たすけて」
携帯電話の液晶パネルに遥からの文字が浮かんでいる。
教室を飛び出した僕は階段へ出て電話をかけた。
ノイズが火花のように散り、コールがつながる。
「遥。なにがあったの?」
電話の向こうでレールの軋みが響いていた。
「あの人がね――。学校へ――」
遥は途切れとぎれに言う。
「お父さんが遥の学校へきたの?」
「むりやりわたしを――」
遥の声をかき消すようにして、次は飯田橋と告げる車掌のアナウンスが流れた。
「もっと大きな声でしゃべって。今、一人なの?」
「そうよ。逃げてきたの」
「新宿へ出てこられる?」
「新宿? この電車はどこへ行くのかしら」
「さっき飯田橋って聞こえたんだけどさ、何線に乗っているの?」
「お堀が見えるわ。――中央線だと思う」
「JRの黄色い電車だね」
「たぶん」
「次の駅で方向を確かめてみて。反対方向だったら乗り換えてよ」
「わかったわ」
「大丈夫だから、心配しないで」
僕は教室へ戻り、かばんを取った。ちょうど第二外国語のロシア語の語学教師が教壇へあがったところだったので、先生に家族が大変だから欠席すると断った。僕があまりにも勢いこんで話したせいか、教師は驚いた顔をしていたけど、かまわずにそのまま教室を後にした。
新宿駅新南口の自動券売機の前に遥が立っている。蒼ざめた顔をした遥はあごを心持ちあげ、迷子になった子供が自分がどこにいるのかわからず怯えるように、焦点の合わない目でどこかを見ていた。
僕は駆け寄り、遥を抱きすくめた。だけど、遥は呆然と突っ立ったまま、僕を抱き返そうとしない。後悔の念が胸を締めつける。昨日、きちんと話しておくべきだった。
遥を連れて近くの喫茶店へ入った。レンガ造りのシックな内装だ。片隅にグランドピアノと小さなアンプが置いてある。レジの後ろの棚にはレコードのジャケットがずらりと並び、レコードプレーヤーのうえで黒光りするLPレコードが回っていた。スピーカーから村下孝蔵の『とまりぎ』が流れ、ゆったり店をつつんでいる。僕が生まれるずっと前に作られたせつない歌だった。
壁際の席に坐り、レモンティーをふたつ注文した。
遥は、息をつめてお冷のコップを見つめる。目の縁が真っ赤だ。ずいぶん泣きはらしたようだった。
「ごめんね、遥」
僕は言った。遥はハンカチで鼻をこすった。
「どうしてゆうちゃんが謝るの?」
「実はさ――」
僕は、昨日の朝、遥の父親が僕たちの家へきたことを話した。それから、夕べ近所の児童公園でまた彼と話をしたことも告げた。遥の瞳から涙がこぼれる。
「今晩、遥に話そうと思っていたんだけど――」
僕はため息をつき、悔し紛れに膝を叩いた。
「ゆうちゃんは悪くないわ。わたしをかばってくれたのね。――ありがとう」
遥は、手にしたハンカチを握りしめる。
「そんなの当たり前だよ。ほんとにごめん」
「謝らないで。ゆうちゃんは、わたしのためにがんばってくれたのよ。わたしの気持ちをわかってくれるのは、ゆうちゃんだけだもの」
遥はしんみり言った。遥はどれだけ傷ついただろう。僕は悲しかった。ふたりとも黙りこんだところへウェイトレスがきて、白いカップをさりげなく置いていった。
「いつ遥のお父さんが学校へきたの?」
僕はようやくのことで訊いた。
「お昼にバイトをあがって図書館を出たら、出口のところであの人が待ち伏せしていたのよ。どうしてわかったのかしら?」
「大学に伝《つて》があるそうだから、大学の関係者に聞き出したんだろうね」
「あの人は話があるっていうんだけど、帰ってくださいっていって無視して歩き出したの。昔のことなんて思い出したくもないし、かかわりあいにもなりたくもないから。だけど、あの人は追いかけてきて、どうしても聞いてほしいってひつこく食い下がるのよ。
門を出たところで、あの人はわたしの腕をつかんだわ。怖かった。あの人はかんかんになっていて、わたしが小さかった頃、お母さんをなじっていたのとおんなじ表情なの。あれから十何年も経つのに、ぜんぜん変わっていないのね。わたしは振りほどこうとしたんだけど、手首をがっちり握られて逃げられなかった」
遥はレモンティーを飲もうとしてカップを手にしたのだけど、手が震えてうまく持てなかった。紅茶が波立ち、こぼれそうになる。
「むりやりタクシーへ押しこめられたわ。どこへ連れて行かれるんだろうって気が動転しちゃった。運転手さんにとめてくださいってなんどもお願いしたんだけど、あの人は娘と話をするだけだからっていって誤魔化してしまうのよ。運転手さんはあの人の話を信じちゃったみたい。わたしも年頃の娘がいるからお父さんの気持ちはよくわかりますよなんていって、お嬢さんもお父さんの話くらい聞いてあげたらどうですかってわたしを諭すの。お父さんてものは娘がかわいくてしかたないんだからって。たぶん、ごくふつうの家の、ごくふつうの愛情をもったお父さんなのね。壊れた家庭のことなんて、わからないのよ。
あの人は自分のところへおいでってひつこく誘ってきたわ。お母さんのところから籍を抜いて、自分のほうへ籍を移しなさいってね。就職するにしても、結婚するにしても、鬱病の母親といっしょにいるより、自分といたほうがずっと有利だからって。どうしてあんなことを平気でいえるのか、わからないわ。あの人がお母さんを大切にしてくれたら、こんなことにはならなかったのに。わたしだって、あたりまえにしあわせに過ごしたかった。お母さんだってそうよ。わたしは、昔のことは忘れたいからもう目の前に現れないでってなんどもいったの。
あの人と口論しているうちに、運転手さんはちょっとへんだなって気づいてくれたみたい。運転手さんは、娘さんの話も聞いてあげなくっちゃ、娘さんももう大人なんだし、いろいろ自分で考えていることもあるんだからって、わたしに助け舟を出してくれたのよ。でも、あの人は逆ギレして運転手さんを叱りつけちゃった。タクシー代は払うから、君は黙って客のいうことを聞いていればいいんだっていってね。運転手さんはむっとして黙りこんじゃった。
小学生の頃、施設にいたときにあの人が迎えにきたことを思い出したわ。
あのときは、ちょっぴりうれしかった。施設でお友達もできて、それなりになじんで暮していたんだけど、やっぱりさみしかったもの。
わたしね、施設へ入ってから万引きの癖がついちゃったの。そんなことはそれまで一度もしたことがなかったし、万引きしようなんて考えたこともなかったんだけど、どういうわけかお店にならんでいる物を取りたくなっちゃうのよ。それでお店の人に見つかって、施設へ連絡が入って、いつも神父さんに怒られていたの。でもね、わたしは神父さんに怒られるのがうれしくてしょうがなかった。神父さんはわたしのためを思って、親身になって真剣にお説教してくれたわ。わたしのことをほんとうに考えてくれる人がいるんだって思ったら、泣けてきちゃうもの。神父さんは忙しい人だから、施設でもめったに見かけないし、話をする機会もあんまりないんだけど、子供が問題を起こしたらいつも自分の仕事は後回しにして、子供とまっすぐ向かい合ってくれたわ。やさしい人だった。ひょっとしたら、わたしは神父さんとお話をして、いっしょに神様に懺悔したかったから、万引きをしていたのかもしれない。
あの人の家ではお姉ちゃんがやさしくしてくれたし、それはよかったんだけど、お母さんに会わせてもらえなかった。毎日、あの人がお母さんの悪口ばかりいうものだから、つらかったわ。なんだか胸がずきずき痛んで、心が引き千切られそうだった。わたしはお母さんを裏切ってしまったって思って、自分を責めていたの。
あの人は、タクシーのなかでお母さんの悪口を言い始めたわ。お母さんだって悪いところがあったのかもしれないけど、あんまりよ。一方的過ぎるもの。わたしは息苦しくなっちゃった。
それでね、運転手さんはバックミラー越しにわたしのことを心配そうにちらちら見ていたんだけど、機転を利かして交番の前でとまってくれたの。クラクションを鳴らしてお巡りさんを呼んでくれて、ややこしい事情のようだから自分には手におえないし、もしかしたら誘拐かもしれないからお客さんの話を聞いてみてくださいよって駐在さんにいってくれたのよ。
あの人は怒って、あたりかまわず怒鳴り散らしたわ。いつもそうなのよ。ちょっとでも思い通りにならないことがあったら、ぜんぶまわりのせい。自分の言い分をとおすことしか考えていないのよ。お巡りさんも怒ってしまって押し問答になったわ。わたしは、その隙にドアを開けて逃げ出してきたの。あんまり走りすぎたから、胸が破れるかと思った」
話し終えた遥は今走ってきたかのように胸を大きく上下させ、手で押さえた。店に流れていたレコードはいつのまにかとまっていた。長い髪をした中年の女性がピアノの前に坐り、ショパンの夜想曲を弾き始める。
「とにかく、遥が無事でよかったよ」
僕はほっと息をついた。
「あの運転手さんのおかげだわ」
「男気のある人でよかったよね」
「もし会えたら、お礼を言いたいわ。――あの人はまたくるかしら」
「たぶん」
「どうしよう」
遥は消え入りそうな声で言い、心底困ったふうに眉根を寄せた。
「今日のことを警察へ訴えれば、なんとかなるのかな?」
「わからない」
「家へ帰ったらネットで調べてみようか。アメリカだと、ストーカーに被害者の半径何十メートル以内に近づいてはいけないとかっていう判決を出しているらしいけど」
「もしそんな判決が出ても、あの人のことだから無視するにきまっているわ」
「そうかもしれないね。いつでも自分が絶対に正しいって勘違いしているタイプの人間だから。――警察沙汰にしたとしても、遥のお父さんが遥の気持ちを理解しようとしなかったら、ほんとうの解決にはならないよね」
「わたしの話にきちんと耳を傾けてくれるんだったら、話し合うことだってできるかもしれないのに」
「遥のお父さんはごり押しばっかりなんだよな。そうでなかったら、餌で人を釣ろうとするし」
僕は首を振った。あの男とのやりとりを思い出すと虫唾が走る。
「ごめんね。ゆうちゃんに迷惑をかけてしまって」
「なにを言っているんだよ。そんなことないよ。遥を守るのが僕の仕事なんだから」
「こんなごたごたに巻きこんで、もうしわけないわ」
「だから、そんなことを言わないでよ。ふたりで解決しよう。いいね」
「うん」
遥は心細そうにうなずく。もしかしたら、遥の父親は一生つきまとい、懸命に生きようとする遥の足を引っ張り続けるのかもしれない。なにか名案があればいいのだけれど。
「でもさ、よくわからないんだけど、自分の娘が嫌がっているのに、どうしてここまで追いかけるんだろう。むりやり誘拐したりしてさ。ひどいよね」
「失ったものはいつまでも心に残るのよ。あの人にとっては、失ったものがいちばん大切なものなのよ。ほんとうに大切なものは、ほかにあるはずなのに」
うつむいた遥は頬をひっそりさせた。
父親と一緒に暮していた時、遥は大切にしてもらえなかった。その悲しみは僕にもよくわかる。僕は冷えた紅茶を飲み干した。
とりあえず、ふたりの部屋へ帰ることにして喫茶店を出た。僕たちにはほかに行くところなど、どこにもなかった。
電車から眺める東京の風景は、冬枯れた肌寒い色に染まっている。遥が時折、怯えた木の葉のように体を震わせるから、僕は遥の肩を抱き続けた。遥の心の重荷をせめてはんぶんでも背負ってあげられたらと願うけど、これくらいのことしか僕にはしてあげられない。遥はまた、この間のようにどうにもならないくらいに落ちこんでしまうのだろうか? そう考えると気が気ではなかった。
部屋へ帰ってからも、遥はしょんぼりしたままだ。ベッドに腰かけてずっと考えこんでいる。
「遥、引越ししようか」
僕もベッドに腰かけた。
「ここは遥が学校へ通うのもちょっと不便だし、台所も狭いしね。それに、遥のお父さんはここを知っているから、またやってくるかもしれない。ちょうどいい機会だから、遥の学校と僕の学校との中間くらいのところで部屋を探そうよ」
「そうね」
遥は気のない返事をする。今日の出来事ばかりを考え、心ここにあらずといった様子だった。一度落ちこむとそのことばかり考え続ける遥の悪い癖が出ていた。
「考えておいてよ。僕は、遥と一緒ならどこに住んでもかまわないから。それから、今日のことはあんまり考えないことにしようよ。考えるなって言ってもむりかもしれないけど、思いつめるはよくないよ」
遥はなにも答えず、ぽろぽろ涙を流す。僕はやりきれなかった。あの男は、こんなふうに遥を苦しめて、いったいなにを考えているのだろう。
昨夜のカレーの残りを温め、ふたりで食べた。今日は全部やるからといって夕飯の支度も後片付けも僕がすませた。
食事が終わった後も、遥はやはりベッドに腰かけて考えこんでいる。そっとしておいてほしいようなので、僕は机に向かってロシア語の勉強をした。
夜の十一時をまわった。
しんと冷えた夜だった。
こんなに遅くなら、遥の父親もさすがにやってこないだろうと思い、小腹の空いた僕は近所の弁当屋へ焼き鳥を買いに行くことにした。いっしょに出かけようかと誘ってみたけど、遥は黙って首を振るだけだ。明日か明後日あたりにでも、遥の気持ちがすこし落ち着いたところで引越しの話をしよう。いつ父親が現れるのかとびくびくしながら暮らすのは、遥にとっても僕にとっても決していいことではない。新しい場所で新しい気分になれば、元気になってくれるかもしれない。できるだけ早いほうがいいだろう。
スニーカーを履いてドアを引いた瞬間、黒い影がなだれこんできた。僕は突き飛ばされ、壁で頭をしたたか打った。
遥が悲鳴をあげる。
はっとして振り向くと、遥の父親が、
「お父さんといっしょに行こう」
とわめきながら、遥の腕を引っ張っていた。男の目は吊りあがり、凄まじい形相をしている。人攫いの鬼だった。
「なにをするんだ」
僕は土足のまま部屋へ駆けこみ、彼へ飛びかかった。
「遥、早くきなさい。お前の将来のことを考えたら、お父さんといるのがいちばんなんだ」
遥の父親は遥を放そうとしない。僕は力任せに彼の腕を殴った。遥の腕が離れ、遥は床へ倒れこむ。遥に襲いかかろうとした男のアキレス腱をスニーカーで思いきり踏みつけ、うずくまった彼を廊下へひきずりだした。
「遥、一一〇番して」
僕は叫んだ。
「娘を返せ」
怒り狂った遥の父親は僕の首を絞める。
悔しくてしょうがない。せっかく幸せになろうとしているのに、これではなにもかもぶち壊しだ。このまま負けたのでは、今までなんのためにがんばってきたのかわからない。
「ふざけんな」
僕は男の腕を振りほどいた。頭突きを喰らわせ、廊下の端まで押し出す。僕は、がむしゃらに男を押しまくることしか考えていなかった。遥には近づけさせない。
突然、相手が軽くなる。
そのまま階段を転げ落ちた。
「たすけて」
携帯電話の液晶パネルに遥からの文字が浮かんでいる。
教室を飛び出した僕は階段へ出て電話をかけた。
ノイズが火花のように散り、コールがつながる。
「遥。なにがあったの?」
電話の向こうでレールの軋みが響いていた。
「あの人がね――。学校へ――」
遥は途切れとぎれに言う。
「お父さんが遥の学校へきたの?」
「むりやりわたしを――」
遥の声をかき消すようにして、次は飯田橋と告げる車掌のアナウンスが流れた。
「もっと大きな声でしゃべって。今、一人なの?」
「そうよ。逃げてきたの」
「新宿へ出てこられる?」
「新宿? この電車はどこへ行くのかしら」
「さっき飯田橋って聞こえたんだけどさ、何線に乗っているの?」
「お堀が見えるわ。――中央線だと思う」
「JRの黄色い電車だね」
「たぶん」
「次の駅で方向を確かめてみて。反対方向だったら乗り換えてよ」
「わかったわ」
「大丈夫だから、心配しないで」
僕は教室へ戻り、かばんを取った。ちょうど第二外国語のロシア語の語学教師が教壇へあがったところだったので、先生に家族が大変だから欠席すると断った。僕があまりにも勢いこんで話したせいか、教師は驚いた顔をしていたけど、かまわずにそのまま教室を後にした。
新宿駅新南口の自動券売機の前に遥が立っている。蒼ざめた顔をした遥はあごを心持ちあげ、迷子になった子供が自分がどこにいるのかわからず怯えるように、焦点の合わない目でどこかを見ていた。
僕は駆け寄り、遥を抱きすくめた。だけど、遥は呆然と突っ立ったまま、僕を抱き返そうとしない。後悔の念が胸を締めつける。昨日、きちんと話しておくべきだった。
遥を連れて近くの喫茶店へ入った。レンガ造りのシックな内装だ。片隅にグランドピアノと小さなアンプが置いてある。レジの後ろの棚にはレコードのジャケットがずらりと並び、レコードプレーヤーのうえで黒光りするLPレコードが回っていた。スピーカーから村下孝蔵の『とまりぎ』が流れ、ゆったり店をつつんでいる。僕が生まれるずっと前に作られたせつない歌だった。
壁際の席に坐り、レモンティーをふたつ注文した。
遥は、息をつめてお冷のコップを見つめる。目の縁が真っ赤だ。ずいぶん泣きはらしたようだった。
「ごめんね、遥」
僕は言った。遥はハンカチで鼻をこすった。
「どうしてゆうちゃんが謝るの?」
「実はさ――」
僕は、昨日の朝、遥の父親が僕たちの家へきたことを話した。それから、夕べ近所の児童公園でまた彼と話をしたことも告げた。遥の瞳から涙がこぼれる。
「今晩、遥に話そうと思っていたんだけど――」
僕はため息をつき、悔し紛れに膝を叩いた。
「ゆうちゃんは悪くないわ。わたしをかばってくれたのね。――ありがとう」
遥は、手にしたハンカチを握りしめる。
「そんなの当たり前だよ。ほんとにごめん」
「謝らないで。ゆうちゃんは、わたしのためにがんばってくれたのよ。わたしの気持ちをわかってくれるのは、ゆうちゃんだけだもの」
遥はしんみり言った。遥はどれだけ傷ついただろう。僕は悲しかった。ふたりとも黙りこんだところへウェイトレスがきて、白いカップをさりげなく置いていった。
「いつ遥のお父さんが学校へきたの?」
僕はようやくのことで訊いた。
「お昼にバイトをあがって図書館を出たら、出口のところであの人が待ち伏せしていたのよ。どうしてわかったのかしら?」
「大学に伝《つて》があるそうだから、大学の関係者に聞き出したんだろうね」
「あの人は話があるっていうんだけど、帰ってくださいっていって無視して歩き出したの。昔のことなんて思い出したくもないし、かかわりあいにもなりたくもないから。だけど、あの人は追いかけてきて、どうしても聞いてほしいってひつこく食い下がるのよ。
門を出たところで、あの人はわたしの腕をつかんだわ。怖かった。あの人はかんかんになっていて、わたしが小さかった頃、お母さんをなじっていたのとおんなじ表情なの。あれから十何年も経つのに、ぜんぜん変わっていないのね。わたしは振りほどこうとしたんだけど、手首をがっちり握られて逃げられなかった」
遥はレモンティーを飲もうとしてカップを手にしたのだけど、手が震えてうまく持てなかった。紅茶が波立ち、こぼれそうになる。
「むりやりタクシーへ押しこめられたわ。どこへ連れて行かれるんだろうって気が動転しちゃった。運転手さんにとめてくださいってなんどもお願いしたんだけど、あの人は娘と話をするだけだからっていって誤魔化してしまうのよ。運転手さんはあの人の話を信じちゃったみたい。わたしも年頃の娘がいるからお父さんの気持ちはよくわかりますよなんていって、お嬢さんもお父さんの話くらい聞いてあげたらどうですかってわたしを諭すの。お父さんてものは娘がかわいくてしかたないんだからって。たぶん、ごくふつうの家の、ごくふつうの愛情をもったお父さんなのね。壊れた家庭のことなんて、わからないのよ。
あの人は自分のところへおいでってひつこく誘ってきたわ。お母さんのところから籍を抜いて、自分のほうへ籍を移しなさいってね。就職するにしても、結婚するにしても、鬱病の母親といっしょにいるより、自分といたほうがずっと有利だからって。どうしてあんなことを平気でいえるのか、わからないわ。あの人がお母さんを大切にしてくれたら、こんなことにはならなかったのに。わたしだって、あたりまえにしあわせに過ごしたかった。お母さんだってそうよ。わたしは、昔のことは忘れたいからもう目の前に現れないでってなんどもいったの。
あの人と口論しているうちに、運転手さんはちょっとへんだなって気づいてくれたみたい。運転手さんは、娘さんの話も聞いてあげなくっちゃ、娘さんももう大人なんだし、いろいろ自分で考えていることもあるんだからって、わたしに助け舟を出してくれたのよ。でも、あの人は逆ギレして運転手さんを叱りつけちゃった。タクシー代は払うから、君は黙って客のいうことを聞いていればいいんだっていってね。運転手さんはむっとして黙りこんじゃった。
小学生の頃、施設にいたときにあの人が迎えにきたことを思い出したわ。
あのときは、ちょっぴりうれしかった。施設でお友達もできて、それなりになじんで暮していたんだけど、やっぱりさみしかったもの。
わたしね、施設へ入ってから万引きの癖がついちゃったの。そんなことはそれまで一度もしたことがなかったし、万引きしようなんて考えたこともなかったんだけど、どういうわけかお店にならんでいる物を取りたくなっちゃうのよ。それでお店の人に見つかって、施設へ連絡が入って、いつも神父さんに怒られていたの。でもね、わたしは神父さんに怒られるのがうれしくてしょうがなかった。神父さんはわたしのためを思って、親身になって真剣にお説教してくれたわ。わたしのことをほんとうに考えてくれる人がいるんだって思ったら、泣けてきちゃうもの。神父さんは忙しい人だから、施設でもめったに見かけないし、話をする機会もあんまりないんだけど、子供が問題を起こしたらいつも自分の仕事は後回しにして、子供とまっすぐ向かい合ってくれたわ。やさしい人だった。ひょっとしたら、わたしは神父さんとお話をして、いっしょに神様に懺悔したかったから、万引きをしていたのかもしれない。
あの人の家ではお姉ちゃんがやさしくしてくれたし、それはよかったんだけど、お母さんに会わせてもらえなかった。毎日、あの人がお母さんの悪口ばかりいうものだから、つらかったわ。なんだか胸がずきずき痛んで、心が引き千切られそうだった。わたしはお母さんを裏切ってしまったって思って、自分を責めていたの。
あの人は、タクシーのなかでお母さんの悪口を言い始めたわ。お母さんだって悪いところがあったのかもしれないけど、あんまりよ。一方的過ぎるもの。わたしは息苦しくなっちゃった。
それでね、運転手さんはバックミラー越しにわたしのことを心配そうにちらちら見ていたんだけど、機転を利かして交番の前でとまってくれたの。クラクションを鳴らしてお巡りさんを呼んでくれて、ややこしい事情のようだから自分には手におえないし、もしかしたら誘拐かもしれないからお客さんの話を聞いてみてくださいよって駐在さんにいってくれたのよ。
あの人は怒って、あたりかまわず怒鳴り散らしたわ。いつもそうなのよ。ちょっとでも思い通りにならないことがあったら、ぜんぶまわりのせい。自分の言い分をとおすことしか考えていないのよ。お巡りさんも怒ってしまって押し問答になったわ。わたしは、その隙にドアを開けて逃げ出してきたの。あんまり走りすぎたから、胸が破れるかと思った」
話し終えた遥は今走ってきたかのように胸を大きく上下させ、手で押さえた。店に流れていたレコードはいつのまにかとまっていた。長い髪をした中年の女性がピアノの前に坐り、ショパンの夜想曲を弾き始める。
「とにかく、遥が無事でよかったよ」
僕はほっと息をついた。
「あの運転手さんのおかげだわ」
「男気のある人でよかったよね」
「もし会えたら、お礼を言いたいわ。――あの人はまたくるかしら」
「たぶん」
「どうしよう」
遥は消え入りそうな声で言い、心底困ったふうに眉根を寄せた。
「今日のことを警察へ訴えれば、なんとかなるのかな?」
「わからない」
「家へ帰ったらネットで調べてみようか。アメリカだと、ストーカーに被害者の半径何十メートル以内に近づいてはいけないとかっていう判決を出しているらしいけど」
「もしそんな判決が出ても、あの人のことだから無視するにきまっているわ」
「そうかもしれないね。いつでも自分が絶対に正しいって勘違いしているタイプの人間だから。――警察沙汰にしたとしても、遥のお父さんが遥の気持ちを理解しようとしなかったら、ほんとうの解決にはならないよね」
「わたしの話にきちんと耳を傾けてくれるんだったら、話し合うことだってできるかもしれないのに」
「遥のお父さんはごり押しばっかりなんだよな。そうでなかったら、餌で人を釣ろうとするし」
僕は首を振った。あの男とのやりとりを思い出すと虫唾が走る。
「ごめんね。ゆうちゃんに迷惑をかけてしまって」
「なにを言っているんだよ。そんなことないよ。遥を守るのが僕の仕事なんだから」
「こんなごたごたに巻きこんで、もうしわけないわ」
「だから、そんなことを言わないでよ。ふたりで解決しよう。いいね」
「うん」
遥は心細そうにうなずく。もしかしたら、遥の父親は一生つきまとい、懸命に生きようとする遥の足を引っ張り続けるのかもしれない。なにか名案があればいいのだけれど。
「でもさ、よくわからないんだけど、自分の娘が嫌がっているのに、どうしてここまで追いかけるんだろう。むりやり誘拐したりしてさ。ひどいよね」
「失ったものはいつまでも心に残るのよ。あの人にとっては、失ったものがいちばん大切なものなのよ。ほんとうに大切なものは、ほかにあるはずなのに」
うつむいた遥は頬をひっそりさせた。
父親と一緒に暮していた時、遥は大切にしてもらえなかった。その悲しみは僕にもよくわかる。僕は冷えた紅茶を飲み干した。
とりあえず、ふたりの部屋へ帰ることにして喫茶店を出た。僕たちにはほかに行くところなど、どこにもなかった。
電車から眺める東京の風景は、冬枯れた肌寒い色に染まっている。遥が時折、怯えた木の葉のように体を震わせるから、僕は遥の肩を抱き続けた。遥の心の重荷をせめてはんぶんでも背負ってあげられたらと願うけど、これくらいのことしか僕にはしてあげられない。遥はまた、この間のようにどうにもならないくらいに落ちこんでしまうのだろうか? そう考えると気が気ではなかった。
部屋へ帰ってからも、遥はしょんぼりしたままだ。ベッドに腰かけてずっと考えこんでいる。
「遥、引越ししようか」
僕もベッドに腰かけた。
「ここは遥が学校へ通うのもちょっと不便だし、台所も狭いしね。それに、遥のお父さんはここを知っているから、またやってくるかもしれない。ちょうどいい機会だから、遥の学校と僕の学校との中間くらいのところで部屋を探そうよ」
「そうね」
遥は気のない返事をする。今日の出来事ばかりを考え、心ここにあらずといった様子だった。一度落ちこむとそのことばかり考え続ける遥の悪い癖が出ていた。
「考えておいてよ。僕は、遥と一緒ならどこに住んでもかまわないから。それから、今日のことはあんまり考えないことにしようよ。考えるなって言ってもむりかもしれないけど、思いつめるはよくないよ」
遥はなにも答えず、ぽろぽろ涙を流す。僕はやりきれなかった。あの男は、こんなふうに遥を苦しめて、いったいなにを考えているのだろう。
昨夜のカレーの残りを温め、ふたりで食べた。今日は全部やるからといって夕飯の支度も後片付けも僕がすませた。
食事が終わった後も、遥はやはりベッドに腰かけて考えこんでいる。そっとしておいてほしいようなので、僕は机に向かってロシア語の勉強をした。
夜の十一時をまわった。
しんと冷えた夜だった。
こんなに遅くなら、遥の父親もさすがにやってこないだろうと思い、小腹の空いた僕は近所の弁当屋へ焼き鳥を買いに行くことにした。いっしょに出かけようかと誘ってみたけど、遥は黙って首を振るだけだ。明日か明後日あたりにでも、遥の気持ちがすこし落ち着いたところで引越しの話をしよう。いつ父親が現れるのかとびくびくしながら暮らすのは、遥にとっても僕にとっても決していいことではない。新しい場所で新しい気分になれば、元気になってくれるかもしれない。できるだけ早いほうがいいだろう。
スニーカーを履いてドアを引いた瞬間、黒い影がなだれこんできた。僕は突き飛ばされ、壁で頭をしたたか打った。
遥が悲鳴をあげる。
はっとして振り向くと、遥の父親が、
「お父さんといっしょに行こう」
とわめきながら、遥の腕を引っ張っていた。男の目は吊りあがり、凄まじい形相をしている。人攫いの鬼だった。
「なにをするんだ」
僕は土足のまま部屋へ駆けこみ、彼へ飛びかかった。
「遥、早くきなさい。お前の将来のことを考えたら、お父さんといるのがいちばんなんだ」
遥の父親は遥を放そうとしない。僕は力任せに彼の腕を殴った。遥の腕が離れ、遥は床へ倒れこむ。遥に襲いかかろうとした男のアキレス腱をスニーカーで思いきり踏みつけ、うずくまった彼を廊下へひきずりだした。
「遥、一一〇番して」
僕は叫んだ。
「娘を返せ」
怒り狂った遥の父親は僕の首を絞める。
悔しくてしょうがない。せっかく幸せになろうとしているのに、これではなにもかもぶち壊しだ。このまま負けたのでは、今までなんのためにがんばってきたのかわからない。
「ふざけんな」
僕は男の腕を振りほどいた。頭突きを喰らわせ、廊下の端まで押し出す。僕は、がむしゃらに男を押しまくることしか考えていなかった。遥には近づけさせない。
突然、相手が軽くなる。
そのまま階段を転げ落ちた。