飛行機に乗る時、毎回、空港の検査ゲートでずいぶん手間取る。
まず行列に並ばなくてはならない。
行列ができるとわかっているのだから、検査ゲートの配置を工夫して数を増やしてくれてもよさそうなものだけど、どの空港もゲートの数は限られている。
順番がきたら、鞄のなかのノートパソコンを出して、ズボンのポケットのものも全部出して、上着も脱いでと大忙しだ。荷物の少ない時は、あらかじめポケットのものを上着のポケットへ入れたりして準備できるけど、荷物が多いとそうもいかない。ゲートを通過したら、こんどはパソコンをしまって、ポケットのものを全部しまって、上着を着る。
ゲートを通過した時には搭乗開始までもう時間があまりなくて、慌ててトイレへ駆けこんだりする。
テロ対策のための全身透視スキャナーがあるそうだけど、いくらテロ対策のためとはいえ、自分の裸を見られるのはごめんだ。いくらなんでもやりすぎだと思う。
テロ対策があたかも正しいことのように語られる。だけど、僕は眉唾ものだと思っている。
テロリストは、裏を返せばレジスタンスだ。
たとえば、ナチスドイツの占領下でフランスのレジスタンスが活躍したけど、ナチスの側から見れば、フランスのレジスタンスは自分たちに楯突く立派なテロリストだ。同じように、アルカイダもイスラムの側から見れば、レジスタンスであって、テロリストではない(もしアルカイダという組織がほんとうに存在して、彼らが9・11の実行者だったとすればの話だけど)。
圧制を受けたり、外国に占領されたりとんでもない嫌がらせを受けたりと圧倒的な暴力に組み伏せられた者が自分たちの権利や自由を確保しようとすれば、ゲリラ的な暴力で抵抗するよりほかに手段がない。残念なことに、一般的に言って暴力に対抗できるのは別の形の暴力でしかないからだ。キリストは「右の頰を打たれたら、左の頰を差し出せ」と言ったけど、現実には、そんなことをすればなぶり殺しにされてしまう。
テロ対策の検査ゲートを通るたびに、
――やれやれ、
と思ってしまう。
テロ対策に奔走する国家側にも、レジスタンスの側にも、どちらにも「正義」はある。そして、どちらも「正義」という名の暴力を行使している。暴力は悪にほかならない。悪に巻きこまれるのは、ごく真面目に働いて、ごく真面目に暮している人たちだ。
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第60話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/