アシスタントを約二年間務めてくれたアニメちゃんがとうとう会社を辞めた。
何度も慰留したけど本人の辞意はかたかった。しょうがないなと僕も思う。勤め先は日系企業のなかでも待遇が低い。近頃は中国企業の待遇もあがってきたので、気の利いた中国企業のほうがいい給料を出すくらいだ。アニメちゃんの日本語力と事務処理能力なら、よそへ行けば今の一・五倍くらいの給料をもらえるだろう。安い給料でよくがんばってくれた。アニメちゃんが手伝ってくれてほんとうに助かった。
アニメちゃんが辞めるほんの少し前、僕は部署が異動になってアニメちゃんの上司ではなくなった。
「もうお前の上司じゃないから気が楽でいいよ。お前に仕事をさせるときは肩に力が入りすぎていたものな。お前は仕事を始めれば期待以上にこなしてくれるんだけど、仕事をさせるまでがたいへんだからな」
僕はアニメちゃんに言った。
アニメちゃんは頭の回転の速い子なのだけど、なにせむらっ気だ。調子のいいときはすいすい仕事をこなす。だけど、気分の乗らないときは仕事をさせるのに手こずった。アニメちゃんが嫌だとかなんだとかとだだをこねると、僕はアニメちゃんにヘッドロックをかけ、
「ちゃんと仕事をしなさい」
と叱りつけたものだった。社会人になって、しかもいい年をした大人になって職場でヘッドロックをかけるようなはめにおちいるとは夢にも思わなかった。中国でしかできない経験だ。いまとなってはいい思い出なんだけど。
「いやー、わたしも野鶴さんからプレッシャーをかけられないので気が楽ですよぉ。ヘッドロックもないですしぃ。わたしが野鶴さんの部下でなくなったのはおたがいにとっていいことなのではないでしょうかっ!」
アニメちゃんはにこにこと楽しそうだ。
「あのなあ、ここは仕事場なんだよ。上司が部下に仕事させるのはあたりまえの話だろ」
「でもでもぉ、気分が楽でいいじゃないですかー」
亜熱帯の人間はお気楽でうらやましい。
チームのみんなに異動の挨拶メールを送ると、アニメちゃんからはこんな文面の返事がきた。
「怠けて反発したこともありましたが、なんにも知らないわたしを社会人に育てていただいて感謝しております」
文章の前半がよけいだけど、こんなことを正直に書くのはアニメちゃんらしい。そういえば、彼女が入ってきたとき、けっこうたいへんだった。
大学の日本語学科を卒業したばかりのアニメちゃんは日常会話は話せても、ビジネス会話はできなかった。ビジネスメールの書き方も知らなかった。
客先へメールで資料を送ってくれと頼むとアニメちゃんは穴が開くほどパソコンの画面を見つめ、何度もなんども読み返してはメールの文面が正しいかどうかをチェックする。「お世話になっております。○○の資料をお送りしますのでご査収ください」といった程度のごく簡単な文章なのだけど、間違っているのではないかと気がかりでしかたないらしい。
「早く送りなさい。相手は待っているんだから」
僕が催促しても、
「ちょ、ちょっと待ってください」
とアニメちゃんはあわてて辞書を引いて確かめ、辞書を引いた後でまたパソコンの画面とにらめっこする。そんなこんなで簡単なメールを送るのに一時間ばかり費やした。
日本の本社からきた簡単な問い合わせの返事を頼むと、
「日本語でどう書いたらいいのかわかりません」
と泣きそうな声で言うので、
「貸せっ」
とノートパソコンを横取りして僕が代わりに文章を打ち、
「これからこの文章をコピペして使いなさい」
と指導したこともあった。
それを思うとその後のアニメちゃんの成長ぶりはめざましいものがあった。アニメちゃんのいいところは、なにか疑問があればすぐに自分で調べてしまうことだ。日本では当たり前のことかもしれないけど、中国ではそんなことをするスタッフは珍しい。大多数の人間は指示されたことはするけど、自分の頭で自分の仕事を考えたり工夫したりはしない。そういう意味で、アニメちゃんは貴重な戦力だった。僕もほかの日本人スタッフも信頼していた。
アニメちゃんの歓送会をかねてチームのみんなでカラオケへ行った。
「ふるさとへ帰るのか?」
僕が訊くと、
「とんでもない。ずっと広州にいますよぉ」
とアニメちゃんは言う。しばらく遊んで、それから就職活動を始めるようだ。いい仕事が見つかることを祈っているよ。
(2013年5月20日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第237話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/