野間の関で勉強した事。
関ケ原の戦いで、肥後を治めた加藤清正は徳川側に付き、
島津家は石田光成側に付いたので、終わってからは国境である出水の土地に
外城制度(半農半士)で精鋭の武士達を駐在させていたり、
独自の政策を立て、専売制(黒砂糖など)や、角割制(連帯責任)をしいたり
浄土真宗を禁止したり等など、色んな知らなかった歴史を勉強させてもらいました。
こんなに敵対した国どうしだったので、特に人の出入りは厳しかったようです。
ただ庶民はけものみち等を通り、浄土真宗のお寺にお参りしたりなどもあったそうです。
また田浦や、天草から移住してきた人々もかなりいらっしゃるみたいで
田浦からは、無理やり連れて行かれたという説や、自分から広大な農地のある
出水の地に行ったという説もあるそうです。
歴史って結構面白いと思えた勉強会でした。
まだまだ続きます。
関ケ原の戦いで、肥後を治めた加藤清正は徳川側に付き、
島津家は石田光成側に付いたので、終わってからは国境である出水の土地に
外城制度(半農半士)で精鋭の武士達を駐在させていたり、
独自の政策を立て、専売制(黒砂糖など)や、角割制(連帯責任)をしいたり
浄土真宗を禁止したり等など、色んな知らなかった歴史を勉強させてもらいました。
こんなに敵対した国どうしだったので、特に人の出入りは厳しかったようです。
ただ庶民はけものみち等を通り、浄土真宗のお寺にお参りしたりなどもあったそうです。
また田浦や、天草から移住してきた人々もかなりいらっしゃるみたいで
田浦からは、無理やり連れて行かれたという説や、自分から広大な農地のある
出水の地に行ったという説もあるそうです。
歴史って結構面白いと思えた勉強会でした。
まだまだ続きます。