お気付きでしょうか。
百済来という地名ですが、朝鮮半島の百済から来ているという言い伝えがあります。
いわれですが、6世紀の朝鮮半島の百済の王に仕えられた日本人で日羅という方がいらしたそうです。
その父は、九州出身の武人で、朝鮮へ渡海した大伴金村に仕えていました。
後に葦北国造刑部靫部阿利斯登といわれる方だったそうです。
日羅は、百済王から二位達率という極めて高い地位を与えられた倭系官僚でした。
日本の敏達天皇の要請により583年に帰国し、
朝鮮半島に対する政策を朝廷に奏上しました。
その内容が、百済に不利な内容であったために、同年12月に百済人によって暗殺されました。
お墓が父阿利斯登の縁の地である現在の百済来に造られたそうです。
元々この記述でも分かるように、百済来も、肥後二見、日奈久までは葦北郡だったのです。
また百済来は平家の落人の村との言い伝えもあります。
お堂が多かったり、まだ昔造りの家が点在しています。
今回はマイクロバスで通ったために、日羅のお墓にはお参り出来ませんでしたが、
いつの日かまた機会を作りたいと思っております。
今回は、お参りさせていただいた地蔵堂の画像をアップします。
百済来という地名ですが、朝鮮半島の百済から来ているという言い伝えがあります。
いわれですが、6世紀の朝鮮半島の百済の王に仕えられた日本人で日羅という方がいらしたそうです。
その父は、九州出身の武人で、朝鮮へ渡海した大伴金村に仕えていました。
後に葦北国造刑部靫部阿利斯登といわれる方だったそうです。
日羅は、百済王から二位達率という極めて高い地位を与えられた倭系官僚でした。
日本の敏達天皇の要請により583年に帰国し、
朝鮮半島に対する政策を朝廷に奏上しました。
その内容が、百済に不利な内容であったために、同年12月に百済人によって暗殺されました。
お墓が父阿利斯登の縁の地である現在の百済来に造られたそうです。
元々この記述でも分かるように、百済来も、肥後二見、日奈久までは葦北郡だったのです。
また百済来は平家の落人の村との言い伝えもあります。
お堂が多かったり、まだ昔造りの家が点在しています。
今回はマイクロバスで通ったために、日羅のお墓にはお参り出来ませんでしたが、
いつの日かまた機会を作りたいと思っております。
今回は、お参りさせていただいた地蔵堂の画像をアップします。