2023年3月のタスマニア3日目
ヘンリー・ジョーンズが30歳
で破たんしたジャム工場を買
収した際、すでに18年間にわ
たる業界経験がありました。
ジョーンズは経験から、事業
の成否がジャム製造に必要な
すべてをいかに手中に収める
かにかかっていることを早い
段階から見抜いていました。
まさに垂直統合型経営の発想
で、自動車メーカーが部品供
給会社から販売会社までを子
会社化したり系列化して、傘
下に置くのと同じ方法です。
これにより経営コストを抑制
し、利益を最大化することが
できる、まさ資本家の発想
ジョーンズは缶詰出荷に必要
な木箱製造のために木材の伐
採権や製材所、原材料供給元
の果樹園やホップ畑、輸送を
担う船会社、船の燃料を産出
する炭鉱、缶製造のための錫
めっき工場等を、次々に買収
もしくは出資を通じて系列化
し傘下に収めていきました。
(※工場前に荷揚げされた木
箱製造のための木材の山)
(※出荷される木箱入り缶詰)
また、果樹農家に対して資金
を融資したり保険代理店とし
て発言権を強めたりなど、ジ
ョーンズ社はますます影響力
を強め、タスマニアの果樹・
ホップ生産への垂直統合に危
機感を募らせる生産者たちの
公開討論会も開かれました。
ジョーンズはまた、政府によ
る賃金設定や労働環境への関
与に強く反対していました。
1907年には王立委員会(※政
府が特定の事案に対して設立
する第三者の専門家による諮
問機関)から、工場の賃金や
労働環境について厳しく批判
される事態ともなりました。
財力と権力の集中で事業の効
率化と資本家の利益が上昇す
る反面、そのとばっちりに苦
しむ人々がいるのはいつの世
も同じ。特にタスマニアとい
う外部から遮断された島での
下請けの苦悩は深刻でした。
(※水路と陸路で続々と原材
料が集まり、海路で国内外に
製品輸送するという好立地)
しかしジョーンズはモットー
“I excel at everything I do”
(自分が行う全ての事に秀でる)
どおり逆風の中でも前進し、
海外にも活路を見出します。
タイの錫鉱山への出資は莫大
な利益をもたらし、イギリス
へも積極的に進出し、第1次
大戦中には英軍に航空機を寄
贈し、1919年にはタスマニ
ア経済への貢献が認められ、
Sirの称号が授与されました。
(👆実に政治臭漂う展開)
ジャム生産の最盛期1920年代
当時の工場はイギリス以外で
最大かつ最も近代的と称され
従業員1,100人を擁し、川上
から川下まで一貫した生産・
輸出販売体制を築きました。
(※一貫生産を行った内部)
一時はハンター通りの端から
端までジョーンズが仕切り、
ヘンリー・ジョーンズ帝国と
呼ばれる繁栄を誇りました。
『ジャム缶男爵』と揶揄され
たジョーンズは1926年病死。
ジョーンズの死後、工場はな
んと!1892年に経営破たん
したピーコックのジャム工場
をともに買い上げて以来の仲
だった元従業員パルフレイマ
ンが引き継ぎ、1965年まで
製造が続けられたそうです。
1977年に工場跡を州政府が
購入し、今はアート関連施設
や店舗が入居する複合施設に
25番地は現在ヘンリー・ジョ
ーンズ・アートホテルになり
館内のバーは IXLロングバー
かつての興亡はともに歴史の
中に沈み、変わらぬ眺めだけ
が静かに広がっていました。
思いがけずハンター通りの話
で足踏みしてしまいました。