旧東海道 関宿をぶらぶら散策してると福蔵寺というお寺がありました。
織田信孝卿菩提所と英照皇太后陛下駐泊所と書かれた石柱に惹かれて入ってみました。
天台真盛宗 清浄山 福蔵寺
草創は天正11年(1583年)で、織田信長の三男であった織田信孝の菩提寺として創建された寺院です。
天台真盛宗の総本山は滋賀県大津坂本の西教寺ですね。信長の比叡山焼き討ちの後、その麓の坂本は明智光秀の領地になり、西教寺は光秀とも所縁の深いお寺です。
信長を討った光秀に縁のある西教寺を本山とする寺院が織田信孝の菩提寺になってるのもちょっと不思議な感じがします。。
本堂に安置されたご本尊は阿弥陀如来像ということ。
観音堂(上写真)には馬頭観世音菩薩像、薬師堂(下写真)には薬師如来像が祀られ、関宿の守護神として厚く信仰されてきたそうです。
また、このお寺には幕末期の孝明天皇の皇后であった英照皇太后が宿泊された書院もあるそうです(非公開)。
織田に所縁があることがこの木瓜紋でも分かりますね。
織田信孝は本能寺の変で亡くなった信長の冥福を祈るため、旧臣の大塚儀左エ門長政に命じてこの寺の建立を始めました。しかし、信孝は羽柴秀吉との後継争いに敗れて自害させられ、長政はこの寺に信孝の首を持参して信孝の菩提寺となりました。
信孝の墓石はその後不詳となってしまったため、400年忌の時に改めて墓石を建立したそうです。
また、境内の一角に「関の小万(こまん)」の墓と碑がありました。
関の小万って誰
久留米藩士の妻が夫の仇討ちの旅に出た途中、関宿の旅籠 山田屋で産んだ女の子が小万でした。
母がまもなく亡くなってしまったため、小万は山田屋に引き取られ、母に変わって父の仇を討つために15才から亀山の道場に通い剣術修行をしていたそうです。
天明3年(1781年)、ついに仇討ちの本懐を遂げ、その後は育ててくれた山田屋で働き、享和3年(1803年)に亡くなりました。
長唄や歌舞伎踊りにもこの関の小万の逸話をモチーフにしたものがあるそうですね。
そして、今は会津屋という屋号になってますが、ここが小万の居た旅籠の山田屋です。
逸話の舞台が今も残っていることに驚きです
つづく
過去記事<旧東海道関宿をぶらぶら(2)>
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