秋の日暮れはつるべ落としと言われるが、巡る季節の速さを実感する。
酷暑だった夏の日を思えば、ほっと一息つく朝夕の涼しさだ。涼しくても、鳥は水浴が好きなのか、気持ちよさそうに、バードバスで羽を打ち振るわせている。毎日のように来ていたヒヨが姿を見せなくなり、シジュウカラとヤマガラが来ている。赤みを帯びた茶色の胸に、黒っぽい羽のヤマガラは、地味な猫庭ではとても目立つ。鈴なりに成ったエゴの実を求め、毎日つがいで訪れる可愛い鳥だ。
さてライシャワー氏の本に戻ろう。「敗戦後の日本」の章を読んでいる。氏の目から見た当時の日本人が、遠慮なく描写されている。
「日本の指導者が、国民を、悲惨な袋小路に引っ張り込んでしまったことは、」「疑問の余地がなかった。」「国民感情の振り子は、伝統的な日本的価値の思考から一転し、」「正反対の西欧の影響を、熱心に受け入れる方向に変わった。」「国粋主義と愛国主義という言葉は、タブー同然となった。」
「軍部の対外政策が、完全な失敗に終わり、戦争に明け暮れた、恐ろしい苦難を体験した結果、」「日本人のほとんどは、手のひらを返すように、軍部の指導体制に背を向けた。」「日本人はアジアの解放者として歓迎されるどころか、中国、朝鮮、フィリピンのいたるところで、激しく憎悪され、」「他のアジア諸国でも、徹底的に忌み嫌われたことを知って、今更ながら愕然とした。」
「かつて、歓呼の声に送られて出征した将兵であったが、外地から、悄然と引き上げてきたときには、」「恨みを抱く都会の群衆から、つばを吐きかけるような仕打ちで、迎えられた。」
マーク・ゲインの「日本日記」を読んだのは、中学生の時だった。
占領軍と共にやってきた新聞記者が、敗戦後の日本の姿を描いたものだ。ライシャワー氏の著書は、中学生だった自分が感じたと同じ思いを、させてくれた。戦勝者として敗戦国の日本へ来て、日本の歴史や過去を糾弾する心ない仕打ち・・。私はゲインの本を、悔しさを堪えて読み、深く傷つけられた。
あの頃は何も知らない子供だったので、異を唱える知識すらなかった。しかし今は、ライシャワー氏に反論できる。軍国主義という言葉をおぞましく宣伝し、愛国心を塵芥のように捨てさせたのは、アメリカではなかったのか。情報のない国民を手玉に取り、過去の全てを悪業として否定させ、憎むように仕向けたのは、占領軍の政策ではなかったか。
日本中の反日分子や、左翼思想に傾いた人間を手なづけ、戦前の日本を悪として攻撃させ、支援し続けたのは、GHQ内部にいた共産主義者たちでなかったのか。敵の敵は味方と言わんばかりに、危険思想の人間たちを釈放し、やりたい放題をさせたのは誰だったか。だからこそ共産党の徳田委員長は、「マッカーサーは解放者だ。」と称賛したのではなかったのか。
私は幼い頃、外地から引き上げる兵士たちを、町の人々がどのように丁重に迎えていたかを記憶している。悄然として帰ってきたのかもしれないが、つばを吐き掛けるような仕打ちで迎えられた兵など、あるはずもなかった。
アジア諸国で徹底的に忌み嫌われ、愕然とした日本人が居たことなど、反日の本で最近知ったくらいだ。私はライシャワー氏による、意図的なプロパガンダを読んでいるような、苦々しさを覚える。
この本の前書きで、氏は日本人のためでなく、欧州とアメリカの読者へ向けて書いたと述べているが、こんな内容なら、現在中国や韓国がやっている、反日のプロパガンダと同じでだった。一部の事実を拡大し、あたかもそれが、全てでもあるように主張する氏が、どうして親日家であろうか。
愚かしい護憲派の政治家や学者が、まるで神のごとくに信仰する憲法につき、氏は赤裸な事実を述べる。
「GHQの政治改革の努力は、もっぱら新憲法の起草問題に集中した。」「1946年2月になって、日本政府の用意した憲法改正草案が、マッカーサーの意に満たないことがはっきりすると、」「マッカーサーは、急遽自らの幕僚に命じ、まったく新しい英文の憲法草案を起草させた。」
中身に関する叙述が、また酷いものだ。
「新憲法は、二つの点で、日本の政治機構に、根本的な変革をもたらした。」「つまり第1条の天皇と、9条の戦争放棄である。」
「天皇の取り扱いは、占領軍の日本改革の中で、最も議論を呼んだテーマであった。」「とりわけ海外では、天皇を裁判にかけて処罰すべきだと、いう意見が多く、議論は厳しかった。」
「もしそのような措置が取られたら、天皇が現実には、実質的な権力を持っていなかったことや、個人的には、戦争に反対する思想の持ち主であったことに照らして、」「極めて不当な扱いになったことであろう。」「そうなれば遅かれ早かれ、日本国内にて、憂慮すべき反発を招いたことと思われる。」
手のひらを返したように、軍部への批判をする国民が現れていたとしても、もし天皇が処罰されていたら、当時の日本は内乱となっていたに違いない。
マッカーサーは、それを恐れていた。
「1946年の元日、天皇は自分が神でないことを、国民に宣言し、」「自ら、新憲法への下準備を整えた。 」「もっとも天皇は、それまでももちろん、西欧人の意識するような、神格の持ち主とみなされてきたわけではない。」
つまり、マッカーサーは、天皇が絶対君主でもなく、独裁者でもないことを知っていた。それなのに、わざわざ天皇に、「人間宣言」をするように強要した。彼らは、天皇を国民の象徴として位置づけ、一切の政治的権能を持たない存在であることを明文化した。
しかし、もともと天皇は、日本人にとって、国の真ん中にある尊崇の対象であり、そのような存在だったのだから、明文化する必要があったと私は思わない。
と、ここまで書いて一息つく。これ以上続けたら、今晩中に終わらない。
九条の戦争放棄は、現在の日本で最大の問題であるから、ゆっくりと明日考えたい。今日は昼間、家内と図書館へ行き、そこで「ライシャワーの日本史」を読み終えた。最後まで読むと、氏の意見は概ね客観的であり、今後の参考になるところが沢山あった。
一番肝心なのは、平泉氏の主張と同じ意見を、発見したことだ。図らずも平泉氏の卓見を再確認し、それを記録しておきたいから、あと一回、ライシャワー氏とお付き合いすることとした。
今晩は、これでお終い・・・・・。やや疲れた。