ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

私の提案「青年の日」

2015-09-26 19:17:53 | 徒然の記

 今年、自治会の役員になった。

 32名の班長の中から、くじ引きで会長と副会長といった役員が選ばれる。宝くじは当たらないのに、役員のくじ引きは当たり、副会長になった。

 昔は町内会と言っていたが、現在では自治会という。道路が傷んでいる、ゴミ置場のネットが破れている、近所の庭木が通行の邪魔をしているなど、班長を通じていろいろな要望が寄せられてくる。

 会長と手分けし処理するのだが、処理しても、ありがとうと言われたことがない。私も同じような礼儀知らずだったので、当番制だから、こんなものだろうと割り切っている。しかし、だんだんと割り切れないものが生じてきた。

 きっと良いことなのだとは、思うけれど、日本が世界の長寿国となり、女性は連続3年間で世界一、男は世界第3位だ。

 世界でもそうなのか、知らないが、日本では、毎年「敬老の日」のがくる。当たり前の話なので、これまで特に、何も考えず過ごしてきた。

 やることと言えば、郷里に住む母に、感謝の気持ちとして、多少のお金を送ってくらいのことだった。94歳の母は、どこにも出かけないし、欲しい物もないし、使うことがないから、送らないでと結構と言ってくる。けれども、長年の習慣なので、やめるわけにいかない。感謝の気持ちもあるが、私の場合は、親不孝にふさわしくない惰性でもある。

 72才の息子が、94才の母親の「敬老の日」を祝う ・・? 苦笑しながら、お祝いをしてきたが、副会長になった今年、は当たり前の「敬老の日」が、「これで良いのかと考える日」になった。

 毎年、地区の社会福祉協議会が中心となり、小学校の講堂で、盛大な「敬老の日のお祝い」が行われる。自治会が協力し、案内状の配布や前日の会場作りや、当日の受付、案内などを担当する。

 飾り付けられた会場では、市長や各種団体の会長や、学校長などが入れ替わり挨拶し、とても退屈な時間が空費される。退屈な各種団体の長の話が終わると、小学生の合唱や演技が行われ、食事の時間となる。

 決まり切った、例年の式次第だ。7、8年前までは70才以上が、招待される老人だったが、さすが世界の長寿国になった現在は、72才以上でないと、老人に入れてもらえなくなった。

 私は72才と自称しているが、数え年の勘定なので、法に厳しい市役所は、私を71才と区分している。・・、こんなことは、つまらない余計な話なので、本題に戻ろう。

 さて、私が自治会の役員となり、ボランティアの世話役として式場に臨み、退屈な挨拶の間に考えたこと。これこそが本題なのだ。

 市長の挨拶も、参考になるので、紹介したい。
「本日は、お元気な皆様のお姿を拝見し、ますますのご健勝を喜び、」「心からお祝いを申し上げます。」「わが市では、100才以上の方が、75名もいらっしゃいます。」「目出度いことです」「これからも皆様が、いつまでも、健康で過ごされますことを、お祈り申し上げます。」

 長寿社会を祝いつつ、将来への心がけを述べる、市長の話を聞きながら、受付のテーブルに置かれた、一覧表を眺めた。正確な数を知らないが、「敬老の日」の祝賀行事は、私の自治会を含め、複数の地区が共同で開催している。

 表を見ると、72才以上の住民が576名で、出席者が186名となっていた。さして広くもない地域に、これだけの老人がいるのだから、確かに高齢化社会になっていると、実感した。

 改めて周囲を見回すと、会場の世話をしている、私たちのようなボランティアも、挨拶をしている来賓者たちも、みんな年寄りばかりだ。祝辞を述べている来賓者の方が、招待された老人より、年配だったりしている。杖をついたり、車椅子に座ったりしている老人もいるが、概して皆、健康で明るく談笑している。

 足腰が少し弱ったとはいえ、私だって、精神年齢は40代だ。老人だなんて、自分では思っていないし、来年招待状が来ても、無意味な行事に参加するものかと、粋がっている。

 つまり私の提案は、時代がここまで変わった今、「敬老の日」の行事は、見直されるべきでないのか、ということだ。若者を凌駕する数の老人が増え、しかも元気で朗らかなのだとしたら、大事にすべき対象は変わるのではないか。

 むしろ、不安定なパートやアルバイトをし、ブラック企業に、低賃金で酷使されている若者こそが、大切にされるべきでないのかと、しみじみ考えた。

 年金暮らしのやりくりだとか、倹しい暮らしだとか、贅沢な苦情をもらしているが、満足に結婚もできず、子供だって作れない若者を、大切にする日こそが、明日の日本のために必要でないのか。

 人生が50年だった昔なら、70才まで生きれば長寿だったろうし、希少価値もあっただろうが、ここまで老人があふれ、祝っている方も、祝われる方も老人ばかりとなってしまった今、このままの「敬老の日」では、申し訳ない気がする。

 日本中が大真面目に、建て前の喜劇を演じていると、思えてならない。「元気な老人が、介護の必要な老人に、手を貸す日」とか、「みんなで生き生き、介護の日」とか、老人同士が、相互扶助する仕組みを考える時が、来ていると思えてならない。

 いっそのこと、元気な老人が集まり、世知辛い世を生きる若者を励ます、「青年の日」を作ったらどうなのだろう。

 年寄りの冷や水ではないが、老人だって、こうなればもっと元気が出てくるし、社会への参画意識が生まれ、更に若返るはずだ。地区の若者が集まり、地区の老人たちと語り合い、食事をし、その中から新しい何かが生まれる・・・と、そんな楽しい夢もふくらむ。

 新しい長寿社会を迎えるのだから、新しい試みが生まれて、なんの不思議があろう。世界に先駆けて日本がやれば、すぐそこで、老人大国になろうとしている、中国や韓国だって、見習わずにおれないだろう。

 と、まあ、こんなことを考えた。自分では、素晴らしい着想と思っているが、一晩たったら気が変わるのかもしれない。気が変わらぬうちに、楽しい気持ちでおられるうちに、ブログにしてしまおう。

 これぞ本当に、「みみずの戯言」だ。笑わば笑え。


 

コメント (13)
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