「中国偏向報道の端緒となった、文化大革命とは何であったか。」
「巨大な傷跡を残した文化破壊革命を、なぜ朝日新聞は、再三の誤報まで犯して礼賛しなければならなかったのか。」
三島氏は自問自答しつつ、又しても驚きの事実を私に示す。「諸悪の根源は、日中記者交換の時、中国政府と朝日出身の親中派国会議員らによって決められた、" 政治三原則 " を日本の報道界が受け入れたからだと言われている。 」「その三原則とは、1. 中国敵視策を取らない 、2. 二つの中国をつくる陰謀に加わらない、3. 日中関係の正常化を妨げない、である。 」
「部数拡張にしのぎを削る日本の大新聞が、北京駐在特派員を置きたいと願うあまり、" 言論の自由 " と引き換えに、中国側の要求を呑んでしまったのである。 」「つまり、中国政府にマイナスとなるようなニュースは報道しないという、" 秘密協定 " を結んでいたのだ。」
そうでないかと推測していたが、やはりそうだったかと納得した。
中国報道に関し、日本と米国の報道姿勢には天と地ほどの差があると氏は言い、実例を挙げてみせる。「かってニューヨークタイムズが、台湾政府関係の全面広告を載せたことがあった。」「中国の国連代表部がこれに怒り、北京特派員は認めないと脅した。」「ニューヨークタイムズは、それなら結構だと言って、このことを記事にして報道し、中国の脅しをはね除けたのである。」
日中間の秘密協定を重視した日本を、ロスアンゼルス・タイムズが、「身売りする日本の新聞」と題する社説で、厳しく批判したという。氏がその要約を載せているので、引用する。
「日本のマスコミの大多数は、中国をめぐる問題に関して、不正直な報道と論評を基準とすることを、自発的に誓約している。」「すなわちそれは、北京の諸政策に批判的な、あるいは北京の利益に反するような、ニュースや論評を一切載せないという行為となる。」
「日本のマスコミ各社が、報道の使命を放棄してまで手に入れたがっている代償は、北京駐在特派員の入国許可にほかならない。」「これらの連中(もはや記者と呼ぶのもふさわしくない)は、中国問題に関して、一切の批判を含まない電報を送っている。」「それは日本の新聞の恥ずべき行為の犠牲者である、日本国民にとって、重大な関心事であるばかりでなく、全世界の日本の友人にとっても、大いに懸念すべき事柄だと言わねばならない。」
米国の新聞にここまで批判されていた事実を、いったいどれだけの国民が知っていただろう。朝日新聞が率先して 、 " 報道しない自由 " を駆使したから、今に至るも庶民はつんぼ桟敷にいる。目を丸くしている私にお構いなく、三島氏の告発がに続く。
「徹頭徹尾中国の当局寄りだった秋岡特派員は、朝日新聞を定年退職後、人民日報の日本販売総代理店の責任者に迎えられた。」「中国政府への貢献度が報いられたのであろう。」
韓国政府が捏造する慰安婦問題について、徹頭徹尾韓国を擁護し、醜いまでに日本を攻撃した、朝日新聞の論説委員だった若宮啓文が、朝日新聞定年退職後に韓国の大学教授として招聘されたが、同社の売国体質は繰り返される歴史にも似ている。
三島氏は恥も外聞も厭わないという勢いで、秘密協定に基づく報道の実例を挙げてみせる。
「ここでいちいち礼賛記事を並べるよりは、広岡社長自身が北京に乗り込み、第一面に署名入りで堂々と載せた " 社長ルポ " を抜粋してみる。」「広岡社長は1970年の4月に、日中政治のパイプ役だった松村謙三を団長とする、訪中使節団に同行し、中国入りをした。」
当時の朝日の報道は、大躍進する素晴らしい中国への礼賛ばかりだから、社長であれ特派員であれ、区別がつかなかった。すっかり忘れているが、きっと私も目にした記事の一つに違いない。ここまで舞台裏を明らかにされると、本気で記事を読んでいた大学時代の己が哀れになってくる。
さて、問題の " 社長ルポ " だ。
「中国人の消費生活の水準は、日本からみればまだかなり低いと思うが、しかし彼らは、今の状態に一応満足し、これから大建設に向かうのだという気概に満ちているようにみえる。」「一般大衆にとっては、現在の生活の安定が、苦しかった昔の思い出と結びついて、よりいっそう強い満足感となるのではないかと思う。」
「文化大革命後の中国では、都市と農村、頭脳労働者と肉体労働者、農業と工業面の格差をなくすための運動が、かなり広範に、徹底的に進められている。」「こうした基礎の上に立って、初めて平均化ということが、思い切って実施されるのであろう。」「私は、日中関係の現状を、もっと日本人の多くが、いま真剣に、勇気を持って直視する必要があると思う。」
広岡社長が訪中した時期は、劉少奇を打倒した四人組が最も権勢を振るい、毛沢東崇拝を煽った林彪が、周恩来を飛び越えてナンバー2に特進していた時だ。党中央では権力抗争が進行し、周恩来を飛び越えた林彪への不満が民衆の間にくすぶっていた。社長が書いたような、安定と満足感が深まっているような状況ではなかったと、氏は指摘し、厳しい批判をする。
「勇気を持って、中国の実情を直視せねばならないのは、歴史の証人を自認した、他ならぬ朝日新聞ではなかったのか。」
笠信太郎ほどには酷評していないが、厳しい論調から推察すると、氏は、広岡社長も笠氏同様朝日新聞を劣化させた張本人の一人だという認識らしい。
「中国報道における " 連続誤報 " は、責任がまったく追求されないままになっている。読者への謝罪もされていない。」「社長方針による偏向報道の結果生じた誤報であるため、処分のしようもないのであろうが、北京特派員はむしろ犠牲者でもあったと言える。」
「しかし、社内では無責任体制が通っても、言論報道機関としての 社会的責任は免れられない。」「特に朝日は、経営の基本方針に、社会の公器として " 朝日新聞は国民の共有財産 " と明記しているだけに、国民に謝罪し、過去を修復する当然の義務がある。 」「それができなければ、 " 国民の共有財産 " などという奢りの表現は、取り消すべきであろう。」
私みたいな市井のへっぽこ親父が言うより、格段の影響力があるはずだろうに、ここまで反省する人間がいても、微動だに変化しない朝日新聞とは、いったい何なのだろう。編集委員という氏の立場が、社内でどのくらいの力を有する地位なのか知らないが、不思議といえば不思議な話だ。
昭和27年の独立を節目に、朝日新聞は新時代にふさわしいものとして、四ヶ条からなる「朝日新聞綱領」を制定した。こんなものがあるとも知らなかったが、今の私から見れば、恥ずかしいばかりの宣言である。わざわざこれを著書に挿入した氏は、どんな気持ちでそうしたのだろう。
一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
一、正義人道に基づいて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。
一、真実を公正迅速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中生を期す。
一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風をたっとぶ。
戦時下の報道姿勢を総括するため、社主、社長以下の経営陣が、知恵を絞って作り上げたものだという。当時はそんな気持にかられたのであろうが、できもしないことを、よくもまあ、並べ立てたものだと感心する。熱い心で朝日新聞の再生を願う氏が、ここでもまた厳しい意見を述べている。
「敗戦に次いで、独立という日本の重要な節目にあたり、朝日新聞は、" 米軍の軍剣に屈してきた占領下の反省 " を、全社的に行うとともに、 」「読者に対しても、プレスコードに縛られてきた報道管制について、誠意ある釈明をすべきであった。」「それが新聞の責務であったのに、またもその検証を怠り、" 綱領発表 " のみに留まったのは、再び悔やまれるのである。」
一日を費やしてここまで叙述したが、まだやっとほんの半分を過ぎたところでしかない。
企業と政府サイドに立ち、住民を軽視し続けた水俣病のこと、自らサンゴに傷をつけた「サンゴ事件」のこと、捏造の特ダネだった「伊藤律事件」など、三島氏の告発はまだまだ厳しく続く。いくら重要な事柄だとしても、朝日新聞の不正や奢りや過ちを、これ以上同じ調子で続ける気にはならない。
三島氏は「はぐれ記者」と自らを卑下してみせるが、彼がここまで自由に、遠慮なくものが言えるのは、社内に庇護してくれる有力者がいたからである。氏を許容する朝日の懐の深さに注目したいという気もないではない。部外者の私には、どこまでも許せない反日と売国の新聞社だが、氏個人にはいくら感謝しても足りない会社であるはずだろう。願わくば氏の志を継いで、朝日の体制を変革する後輩たちが、続々と無数に育ってもらいたいものだ。
大層な理屈で身を飾っていても、結局は朝日も日本の会社であり、底流には義理と人情が流れていると知った。度し難い憎っくき朝日と目の敵にしても、三島氏をめぐる一団の日本人の存在が見えるため、私の攻撃力が鈍り、割り切れない読後感となってしまう。
だらだらと語るのをやめ、最後に自分の希望を述べて、今回のブログにケリをつけたい。
「私のブログが沢山の人に読まれ、沢山の朝日購読者が、私のように定期購読をやめてくれる日が来て欲しい。」「読者の激減した朝日が、静かに、ゆっくりと傾き、日本のマスコミ界から消えて欲しい。」「朝日新聞の記者たちは、桐生悠々や武野武治を手本として辞職し、貧苦をものともせず個々人の生を全うしてもらいたい。」