ねこ庭の独り言

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起て、不屈のペン -1

2015-12-20 09:32:07 | 徒然の記
 三島昭夫氏著「起て、不屈のペン」(平成3年刊 (株)情報センター出版局)を、読了。
氏は昭和3年に岐阜県で生まれ、同志社大学卒業後に朝日新聞へ入社した。編集委員となり、率先して地球環境危機問題に取り組んだ名高い人物らしい。

 この本は簡単に言うと、朝日新聞社の内部告発書であり、愛社精神で綴られた先輩から後輩へ送る檄文でもある。知らない事実を教わった点で、久しぶりに満足したが、正直に言えば共感と反感がせめぎ合い、スッキリしない割り切れなさが残った本でもある。

 「私は古巣の朝日新聞に弓を引く気は毛頭ない。」「もう一度やりたい仕事は、と聞かれたら、朝日新聞記者と答えたい。」だから厳しい内容で書いていても、朝日新聞への単なる批判ではないと強調する。こうして本の最後に書かれた氏の弁明は、反日の朝日を糾弾する私とは決して相容れない。

 「朝日は優れた人材を多く抱え、影響力も伝統的に群を抜いており、日本を代表する新聞である。」「だからこそ国民の機関と宣言し、国民共有の文化財産と自負できるのであろうが、」「それだけに責任も重く、これからは国民の信頼と期待をいささかたりとも裏切ってはならない。」

 このような高揚した自負心に、私は共感を覚えない。自己陶酔の使命感を聞かされると、一歩引きたくなる。共同体の一員としての誇りや使命感を、高ぶった言葉で語る独善を厭わしく思うからだ。日本に生まれ、日本人の誇りを持っていても、それは一人一人が心のうちで大切にすれば良いのであり、外に向け力説するものでないのと同じことだ。

 それでも、皇室記者の板垣氏と同列にして軽蔑しないのは、氏の真摯さに惹かされたからだ。
反戦・平和、反権力、反天皇制を標榜する氏の、強い使命感やエリート意識に辟易させられたが、愛する新聞社の誤りと不正を語る勇気に感銘を覚えた。

 尊敬するジャーナリストとして、氏は元朝日新聞記者だった桐生悠々と武野武治の二人を挙げている。
桐生悠々は戦意高揚の真っ最中だった戦前にあって、一人反戦と平和を唱えた記者だ。朝日をやめ、自ら「他山の石」という新聞を発行し、六男五女を抱えた生活苦のなかでも節を曲げなかった。官憲の弾圧と迫害のなかで一生を終えたが、信を貫いた人物としてその名が記憶されている。

 武野武治は、敗戦の日の朝日新聞の社説に納得せず、「戦争報道の責任を取り、全員退職すべきでないか」と、提案する。意見が誰にも受け入れられなかったため、彼は一人で朝日を辞職した。妻と子供二人を連れて郷里の秋田へ戻り「たいまつ」という新聞を発行し、桐生悠々と同じく自己の信念を貫徹した人物だという。

 「日本の新聞は、軍部をはじめとする右翼に言論の自由を奪われ、自らも軍部に加担して墓穴を掘った。」「戦後自由になっても、新聞は被害者意識から抜けきれず、保守勢力と対決する左翼思想(社会主義)に共感を抱くようになった。」

 「特に朝日は、全体として、親左翼が反権力・進歩的であるという考えに傾いていった。」「戦後急増した左翼読者を狙うという販売政策も加わり、朝日の左翼路線がさらに強く印象づけられた。」「左翼思想は急進的ではあっても、真の進歩主義ではあり得ないのであるが、朝日のこうした親左翼の姿勢が紙面作りに反映し、全学連などの新左翼に共鳴する記者が目立つようになった。」

 敗戦後の朝日新聞に関する氏の分析の率直さに、まず驚いた。次は語られる事実の意外さと重大さに、氏の勇気の本気度を知った。気負った使命感も不自然と思えなくなり、敬意を表したくなった。
「偏向報道が最も顕著に現れた最初の出来事は、安保騒動であったが、そのときの立役者が、戦後14年間にわたって論説主幹を務めた笠信太郎であった。」

 「笠信太郎の批判は、朝日内部ではいわばご法度なのだが、安保報道の偏向は、笠主導による歴史的事実として指摘しておかねばならない。」
忘れもしない。笠信太郎が書いた「ものの見方について」という本はベストセラーとなり、人々の心をとらえた。物事を捉えるとき、一つの固定した立場から考察しないで、いろいろな立場から観察・研究しなくてはならないという、柔軟な思考の提案だった。だから国民の多くは、彼が書く社説がそうした立場で書かれていると受け止め、朝日の記事を信じた。私も間違いなくその内の一人だった。

 しかし三島氏によって明かされる内実の何という、いかがわしさか。
笠氏は柔軟な思考であるどころか、マルクス主義者として官憲にマークされていた記者だった。マルクスかぶれとして睨まれていた彼の身を案じたのが、郷里の先輩であり、主筆をしていた緒方竹虎だった。ドイツ駐在として国外へ逃された彼は、戦後になってやっと帰国し、論説主幹となったという。

 当時の一番の問題は、日本の独立を全面講和でやるべしか、単独講和ですべきかだった。笠はソ連の参加しない講和に終始反対し、論説主幹として全面講和の論を展開したのだというから、いろいろな立場からの検討などどこ吹く風、頑固なマルキストの面目躍如だった。続く三島氏の叙述は、お人好しだった自分をさらに驚かせる。

 「日本独立によって、笠の全面講和論は敗れたのであるが、今度は、その全面講和と抱き合わせになっていた非武装中立論が一人歩きする形となり、」「次の標的が日米安全保障条約の改定に向けられ、朝日の安保批判キャンペーンが展開されるのである。」

 「これが野党の " アンポハンタイ " を勢いづけ、さらに全学連の " アンポハンタイ " に点火され、」「ついに、国会乱入の流血事件へとエスカレートしていく。」
当時の過熱した報道ぶりと、学生たちの激しいデモは、高校生だった私にも鮮明な記憶だ。アイゼンハワー大統領の来日のため、打ち合わせに来たハガチー氏の車が、羽田で学生に囲まれ、投石され、持ち上げられ揺さぶられた。命の危険を感じたハガチー氏は、米軍のヘリコプターで脱出するという騒ぎになった。

 この間の消息について、三島氏が遠慮なく解説している。
「 " 死の国会乱入 " に驚き、そして不安に襲われた朝日新聞の笠論説主幹は、自ら社説に書いた " 最悪事態 " を収拾するために、主要新聞7社の " 共同宣言 " を打ち出すことを決意する。 」「朝日から飛び火して、全学連に燃え移った火の手が、国の安全も脅かすような火勢となったため、各社を結束させて、消火にあたらせようというものであった。」

 さらに氏は、笠主幹の卑劣さをつまびらかにする。
「笠は、一面トップの社説が全学連を煽る引き金になったことを認めながら、岸首相を攻撃した学生の運動は、迷惑だったと突き放し、あれは社会党がシッカリしなかったからだと、責任を転嫁した。」

 「どの新聞も少々一面的な報道をしたと言うが、朝日こそが一貫して反安保に偏り、全面的にデモ報道を優先したのである。」「散々デモを煽っておいて、" 死の騒動 " が起きると、 " あとの祭り " として、今度は新聞全体の共同責任にして、7社の警告を出し、ケリをつけた。」

 これが、今になって知る60年安保の背景である。
空論でしかない非武装中立論は、今も反日左巻きの野党や学者や学生たちが主張しているが、げにも罪深き朝日主幹の笠信太郎でないか。三島氏が語ってくれなかったら、今でも私は笠氏を立派な新聞人と思い続けていたはずだ。彼への批判が朝日内部でタブーだった理由がよく分かる。彼の偶像が破壊されることは、朝日の崩壊につながる爆弾だったからだ。

 以前ブログで述べたが、私は平成25年の5月まで、45年間朝日新聞の定期購読者だった。
笠氏の実態を知らないまま、氏の本の良識めいた空言を信じ、朝日の良識を信じてきた自分だ。覚醒のキッカケは、韓国による執拗な慰安婦問題のプロパガンダと、中国の尖閣領海への侵犯事件だった。捏造と大嘘の隣国を批判せず、かえって日本を悪しざまに言う反日の朝日に強い疑問を抱いたのが始まりだった。

 知るほどに朝日新聞の記事は偏向し、国を貶める売国の中身だった。
慰安婦報道の誤りが判明しても、国民へ謝罪もせず、罪の意識も見せず、平然としている朝日新聞への怒りは治まらないが、こうしてみると、朝日の大罪は、戦前前後を通じて限りない数だ。厚顔なこの新聞社が、慰安婦問題で謝罪などするはずもない。購読する国民の無知なる優しさを良いことにして、踏ん反り返る朝日の体質をしかと理解した。

 さて、ここまでで、本の半分の感想を述べた。
疲れたなどと言っておれない大切な事実ばかりだから、明日も続きを述べたいと思う。三島氏は愛する朝日の後輩へ檄として本を書いたが、自分は愛する国を大切にする人々のために語りたい。この度し難い反日朝日の、許すべからざる内情を。
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