ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

無頼記者-1

2015-12-13 18:48:51 | 徒然の記

 板垣恭介氏著「無頼記者」(平成10年刊 (株)マルジュ社)を、読み終えた。

 「やさぐれ刑事」や「事件記者」などに似た題名から、痛快アクション小説とばかり思っていた。皇后陛下の件で疲れていたから、気晴らしのつもりで読み始めたのに、とんでもない間違いだった。

 なんと氏は、警察回りの事件記者から皇室記者となり、皇后陛下の親派だという。
それならば、偏らない意見が聞け、新しい知識も得られると期待したのだが、期待も外れてしまった。

 このようなレベルの低い人物でも、皇室記者になれるのかと、確かに新しい発見だったが、楽しまない読書になってしまった。

 昭和8年生まれの氏は、早稲田大学卒業後共同通信社へ入社しており、私より10才年長だ。本の冒頭で、氏は戦前の日本を振り返りながら、当時の自分を回想している。

 「昭和20年8月15日。私は旧制中学一年生で、満12才7ヶ月だった。」「日本は戦争をしても、絶対に負けない神国だと教育された、バカな少年が、」「昭和天皇の敗戦の言葉を、山梨県の疎開先で聞いた。」

 「私は、太平洋戦争が、世界の人々を解放する聖戦だと教えられ、」「そのために死ぬことが、正義だと信じ込んでいた。」「現代風に分かりやすく言うと、さながらオウム教の麻原を信じて、サリンをばらまき、」「無差別殺人をした若者と同じで、「私は、絶対の現人神のために、」「少年航空兵を志願して、神風特別攻撃隊になり、」「片道燃料だけの飛行機で、米国の軍艦に体当たりして、爆死するつもりだったから、」「馬鹿は馬鹿なりに、生きる目的を喪失した。」

 「それは、私が、大人への不信感を強く抱くと同時に、」「教育とかマスコミが押し付ける価値観が、いかに脆いものかということを、教えられた一幕でもあった。」「だからそれ以後は、学校や大人たちや、マスコミが示す方向には、逆らって生きることになった。」

 「共同通信社に入り、あらゆる権力に対し、確執を醸し出す精神を、」「常に持続するのが記者の仕事だと、ひそかに決意した。」

 このようにして氏は、反権力、反政府、天皇制否定論者になったと説明する。
氏がこの本を書いたのは65才の時だが、大東亜戦争をオウムのサリン事件と同列に並べるというお粗末な歴史観に、私は先ず呆れさせられた。

 校則を破ったり、教師と争ったり、面接試験で天皇制反対と喋ったり、自分がどれほどに周囲の大人に逆らい、破天荒な若者だったかを、得意そうに述べているが、このような自慢話は、氏の人格と人品の卑しさの証明でしかない。

 敗戦の痛手が、愛国少年を変貌させたと書いているが、私はここに氏の作為を感じさせられた。別の場所で氏は、自分の父親について、次のように語っている。

 「父は昭和初期に、小樽高商の赤狩りで、追放された前科があり、」「戦争中は、国策通信社の社員だったが、いつも、特高のデカさんの監視下におかれていた。」

 鼻持ちならない自慢話だが、彼は敗戦の衝撃で、天皇制廃止論者や反権力になったのでなく、生まれ育った家庭環境の中で、反日思想を植えつけられ、そもそもそういう人間だったのだ。

 こうなってくると私は、氏の本に、素直な気持ちでは向かえなくなる。中学や高校生だった頃、仲間を集め、与太話を得意げにする悪ガキがいたが、その類の馬鹿話としか思えなくなった。

 「憲法九条の拡大解釈を捨て、今度は前文を拡大解釈することで、」「九条を改正しようとするこの論法が、いかに平和憲法の理念を踏みにじっているかは、」「説明するまでもない。」

 「ベルリンの壁が消え、ソ連が崩壊し、冷戦が終わった今、」「国際紛争を、武力で解決しなければならない、大きな問題は消滅しつつある。」「今やすべての国が、日本の憲法のような、絶対平和理念を必要とする時代が、到来している。」

 「大声で、世界の諸国に、非戦の思想を訴える時代が来たと、考えるべきだ。」

 これが64才にもなった記者の思考かと、その幼稚な意見に幻滅する。反日売国の朝日新聞と同レベルの、非現実的空論でしかない。

 彼は敗戦以来、ずっと12才のままで、心の成長が止まったのに違いない。左翼思想のお花畑ぶりが、今も世間を騒がせているが、戦陣に散ったご先祖さまも、国の歴史も考慮しない、彼のようなジャーナリストが沢山いる、戦後日本の恐ろしさを痛感する。

 彼は自民党政治の腐敗を憤り、水俣問題を怒り、60年安保の改定騒ぎを糾弾する。
怒りの原点として、彼は高見順の新聞批判を引用している。

 「新聞は、今までの新聞の態度について、国民にいささかも謝罪するところがない。」「手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として、訓戒的である。」「等しく布告的である。」「戦争について、新聞は責任なしとしているのだろうか。」「度し難き厚顔無恥だ。」

 高見氏の意見は最もであり、強い共感を覚えるが、だからと言って板垣氏が、これからは何が何でも反政府、反権力だと、猪突猛進するのは見当違いも甚だしい。高見氏の意見を正しく受け止めるのなら、先ずは、新聞人がなぜ、政府の言うなりに扇動記事を書いたか、その検証が先でなければならないはずだ。

 むしろ氏は、新聞社の経営陣、幹部記者、一般記者たちの責任を追及し、弾劾し、二度と変節しないための制度づくりを、しなければなるまい。その問題を脇において、簡単な反権力に身を置き換えるとは、恥じるべき安易さでないか。共産党も合法化され、何を喋ろうと官憲に殴られず、刑務所へもぶち込まれないない時代になった今、何を意気がっているのかと、冷笑したくなる。
 
 さて、ここまでは本の前段部分だ。後段に「美智子妃殿下」が語られており、今日のブログは、その部分を述べるのが目的だった。そこに至る前で、氏の意見がとてもバカバカしかったため、見過せなくなり、目的外の記述にスペースを使った。

 スペースだけでなく、自分の気力も使ってしまった。宙ぶらりんの気持ちだが、本日はこれまでとし、本論は明日に伸ばすとしよう。

 楽しみを明日に伸ばす話はよく聞くが、不快なものに、二日も付き合うという話のは、あまり聞かない。見事なまでに愚かな板垣氏だが、それに付き合う私も、劣らず愚か者ということなのだろうか。

コメント (2)
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