ねこ庭の独り言

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笹川良一研究 -1

2015-12-28 19:18:11 | 徒然の記

 佐藤誠三郎氏著「笹川良一研究」(平成10年刊 中央公論社)を、読み終えた。 

 佐藤氏は、昭和7年に生まれ、東大の文学部と法学部を卒業後、同大学の教授となった。この本の出版時は、政策研究大学院大学の副学長である。

 正直に言うと、こんな難しい本を初めて読んだ。難解な書というのでなく、感想を述べるのがとても難しいと、そういう意味だ。著者の言葉を借りて語ると、私の戸惑いが明確になる。

 「生前、笹川良一ほど、評価が大きく分かれていた人物は、日本では珍しい。」「しかも非難攻撃し、悪意のある目で見る人の方が、」「好意的に評価したり、賞賛したりする人よりも、はるかに多かった。」

 「マスメディアが伝える、笹川のイメージは、第二次大戦のA級戦犯 、」「右翼の大立者 、日本の黒幕 、ギャンブルの胴元、」「  自己顕示欲の塊といった、おぞましく、また不気味なものだった。」

 テレビや新聞や雑誌などがそう伝えるから、今でも私は、「何かしらうさんくさい人物」として氏を捉えている。笹川氏と一度も面識のなかった佐藤氏も、最初は私と同様の印象を持っていたらしい。

 考えが変わったきっかけは、A級戦犯容疑者として、巣鴨プリズンに収監された笹川氏が、獄中で書いた日記や手紙を収めた「巣鴨日記」を読んでからだという。

 それまで抱いていた自分の印象と、「巣鴨日記」から得た印象の、あまりに大きな違いに驚き、それが強い興味から関心へと変じ、笹川良一の研究を始めたとのこと。

 週刊誌や新聞には、「提灯記事」というものがある。会社や個人の記事が、ドキュメントを装って書かれるが、中身は徹頭徹尾賞賛の言葉で飾られる。いわば不動産屋の広告みたいな、大風呂敷の宣伝記事だ。依頼主の会社や個人から、謝礼をもらって書くのだから、それは当然そうなる。

 氏が本を書くにあたり、笹川氏の遺族から、謝礼を貰っていたとは思えないが、中身は「提灯記事」そのものと私には思えた。三流の伝記作家が、無闇に主人公を賞め、読者をうんざりさせるのと、同じ状況になった。

 東大の教授が、こんなつまらない本を書いて、恥ずかしくないのかと幻滅したが、それでも、何時ものように最後まで読んだ。

 「笹川良一の生涯を通じて見られる特質は、礼節を重んじ、下の者や弱者には優しく、」「いつも、その立場に立って考え、行動したことである。」「笹川は、徹底した楽天主義者であり、そしてこの楽天主義は、」「強烈な自負心と忍耐力、および負けず嫌いの精神と、健康な肉体とに支えられていた。」「これらの特質は、彼のたぐい稀な行動力と、責任感をはぐくむ土壌ともなっていた。」

 こんな調子で語られるページを、何枚も読まされるのだから、たまったものではない。

 川端康成と幼馴染だと言う笹川氏は、世界中に寄付金をばらまく、日本船舶振興会会長として、有名だった。カーター大統領と親交を持ち、サッチャー首相と対談し、マッカーサー夫人と握手し、そうかと思えばエリザベス・テイラーや美空ひばりと談笑し、ちょび髭でお洒落な銀髪の彼は、テレビのコマーシャルにも笑顔で登場した。

 「巨万の富を築き、それを自己の信ずる目的のため、惜しみなく使いながら、」「個人生活の面では、笹川は、戦前から極めて質素であった。」「質素な生活を、自分にも他人にも要求したのは、」「自尊という笹川の、基本的態度に由来するものであろう。」

 しかし肝心なことは、どうして笹川氏が、毎年毎年大金をバラマキ続けられるのか。どこからそんな金が手に入るのかだ。

 「商才に恵まれた笹川は、株取引などで、間も無く、」「巨万の富を、手にするようになった。」と、氏は語るが、それは、巨万どころか、巨億の富を入手する方法の説明としては、不十分すぎる。

 題名に「笹川良一研究」と付けたのなら、資金の入手経路の研究が基礎に無くては、お話にならない。だから私は、氏の著作そのものも、笹川氏と同様に、「何かしらうさんくさい」として、読み進むしかなかった。ところが本の一番最後に、これに関する著者の弁明があり、思わず笑ってしまった。

 「笹川の行動を調べていて、一番わからないのは、彼がどのようにして、莫大な私財を蓄積したかである。」

 正直な教授だと感心させられもするが、これでは「研究」の名前が泣くというものだろう。

 「株式や、商品の取引によって得られたと、言われているが、」「実際そのとおりであろうが、現在でも透明性に欠ける、日本の株・商品取引市場の実情では、」「その詳細を解明することは、当然ながら不可能である。」

 だとすれば、結局笹川氏は、何かしらうさんくさい人物のまま、という話になり、次のような賞賛も虚しいだけになる。

 「笹川が、名誉心と自己顕示欲の塊という印象を、多くの人が持ったのは、理解できる。」「しかし私が調べた限りでは、笹川が自分から、名誉や地位を求めたという証拠はない。」「ましてノーベル賞か欲しいために、世界に金を配って歩いたなどというのは、下司の勘ぐりにすぎない。」

 「この世の欲を捨てたにもかかわらず、この世で成功した笹川良一に対する、バランスのとれた評価が、」「日本でも可能になるのは、いつのことであろうか。」

 これが本の一番最後に書かれた、著者の言葉だ。残念ながら、このようにつまらない本が世に出される限り、バランスのとれた評価は、永遠になされないはずだ。

 私みたいに、他人を貶してばかりいる者が言うのはおこがましいが、佐藤氏のように他人を誉めそやすだけの人間も、第三者から見れば、下司の仲間になるのではなかろうか。

 褒めさえしておけば、誰にも嫌われないし、返って尊敬されるのでないかと、大きな勘違いをしている人物を、時々見かける。人を褒めるのは、人を貶すのと同じ難さしさがあるのだと、佐藤氏は知る必要がある。

 私が会社勤めをしていた頃、立派な社員を貶す人間と対面した時、私はその人物の心の貧しさを軽蔑した。

 逆に、詰まらない社員を、やたら褒める者に会った時、私は彼の人間性のお粗末さに、眉をひそめた。こうなると、それはもう、佐藤氏の著作の話で無く、自分も含めた謙虚な反省になる。

 ブログに向かっている自分は、たいてい人を貶したり、悪し様に言ったりしているが、良識のある第三者には、そっぽを向かれているのかもしれない。

 「人の振り見て、我が身を直せ。」「他山の石」、昔から言われている言葉を、実感として知らせてもらった。だから本日は謙虚になり、駄作を世に出した佐藤氏にも感謝しよう。

 だがこのブログは、ここで終わらない。長々と述べてきた背後には、自分なりの意図がある。実は私も、笹川良一氏の「巣鴨日記」の断片から、心の記録に残しておきたいという、不思議な感銘を受けた。

 それを明日、続きとして叙述し、今年最後のブログとしたい。もしかしたらそれは、佐藤氏の願う「バランスの取れた評価」につながるのかも知れない。

コメント (2)
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