ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

いじめと不登校 - 5 ( 森田洋司・浜田寿美男氏 )

2021-03-29 15:07:11 | 徒然の記

      5. 森田洋司 昭和16年生 大阪市立大教授     127、132ページ

  「日本社会における私事化」、「いじめの四層構造」などと聞き慣れない新しい言葉を使い、D・オルヴェウス、P・K・スミスという外国の学者の説を引用していますが、内容に真新しいものはありません。

 「私事化とは簡単に言えば、" 公 " 重視から、" 私 " 重視への転換であり、」「社会が近代化していく過程で、生きる意味や価値を、」「私的な生活世界に求める傾向が、強まることです。」

 個人の自由や権利が叫ばれるようになった、戦後の日本なのだと分かりましたが、氏の意見も過去の日本否定です。

 「集団や組織に飲み込まれ、蔑ろにされがちだった私生活や、」「その中心にいる" 私 " を大切にする、ライフスタイルが登場してきたという意味では、」「歓迎すべきことである。」

 「今子供たちの世界で問題となっている、不登校やいじめや非行などは、」「社会の深層を流れる、この私事化という大きな動きの表層にある、」「波紋や渦として理解しなければ、対応できない側面を持っている。」

 反日左翼教授らしい意見へと、傾斜していきます。

「この傾向は、社会全体の人々のライフスタイルが、 " 滅私奉公型 " 社会から、」「 " 活私型 " 社会へと転換していることの表れであり、」「自分を大切にする風潮が、社会に浸透したことでもある。」

 「私事化社会の到来それ自体が、問題なのではない。」「" 個 " という存在が共同体や組織に縛られ、埋没した状態から、」「個々人が、それぞれの表情を持つ顔を見せ始めた段階へと、」「時代が変わりつつあることは、むしろ歓迎すべきことである。」「私事化の動向が様々な問題を生み出しているとすれば、」「それはとりもなおさず、日本社会の中で、」「私事化が成熟していないことを示している。」

 氏の言は、今はその過程であるという楽観論でもあります。結論はこれがまた、意味不明な観念論です。

 「社会の深層の流れのプラス面を伸ばしつつ、いかにしてマイナス面を極小化行くかという課題が、」「横たわっていることを忘れてはならない。」「自立した個の輝きを図りつつ、個と個の共同生活を担いうる資質と能力を、」「いかにして子供たちに培うことができるかに、かかっている。」「いじめ問題の解明と克服には、こうしたマクロの視点を睨んだ対応が、」「必要な段階に来ていると言える。」

 昔の日本を否定するという目的以外に、氏は何を達成したのでしょう。無意味な言葉を繰り返し、なんの解決にも結びつかないお喋りをしているだけです。

  6. 浜田寿美男 昭和22年生 花園大教授 編者の一人  154ページ

 氏の意見を紹介するのは初めてですが、『いま教育を問う』では執筆者の一人でしたから、私は既に読んでいます。わざわざ取り上げたのは、反日左翼学者とはいえ、氏の意見に傾聴に足る部分があると思うからです。反日左翼嫌いだからと言って、何にでも反対している訳ではありません。 

 問題は氏の意見を、どのように具体化させていくかということです。現在の学校制度を全否定したのでは、角を矯めて牛を殺すことになります。氏の提案する形の学校が、全国のどの地域に、どの程度の数で存在すればいいのか、将来の課題として検討に値します。

 「学校はこれまで、同年齢の健常な子供たちを寄せ集めて、」「効率よく教える場であろうとしてきた。」「しかし少なくとも、小学校と中学校については、」「この発想を根本的に見直す必要があろう。」

 「学校は子供たちだけの集団の場でなく、その一世代、二世代前の大人たち、」「つまり教員、職員が共に生活する場である。」「子供たちだけの中で見ても、小・中学校合わせれば、」「12年に及ぶ年齢差がある。」

 「その中にはもちろん、男もいれば女もいる。」「軽重様々な障害を持つ子もいれば、持たない子もいる。」「学校が本来、そうした多様な人間によって構成される集団であることに注目すれば、」「そこに、守る  ー  対等性を生きる  ー  守られるという、」「重層性が成り立つ可能性を、見ることができるはずである。」

 「生活の場には、もっぱら守る人と、もっぱら守られる人がいるのではない。」「同じ人が守りもする、守られもする、あるいは対等にやり取りもする。」「それはあまりに非現実的な、理想主義に聞こえるかもしれない。」「現在の学校状況と、この発想の隔たりは大きく、一見したら夢物語でしかない。」

 氏の夢想する学校には、教室の壁がなく、オープンスクール形式で、子供たちが入り混じって勉強します。教師も職員も、自由に参加するという場所になります。「保健室登校生徒」や、「行き場のない不登校生徒」も、こういう場所なら参加できるのかもしれません。

 ただ、全ての学校をこのようにすべしという極論には賛成しません。勉強の嫌いな子がいるように、勉強の好きな子供もいます。勉強の好きな子には、こういうオープンスクールは逆に苦行の場所になります。

 私のように、定年退職後から勉強を始めたような者には、生涯学習の場としてオープン化された教室があれば、若い人たちに混じって学ぶのも楽しい気がします。長寿社会が到来したのですから、学校も施設の何割かを公開し、社会人と共有する工夫も良いような気がします。

 その場合でも、現在の学校制度が中心となって運営されるのが正しいと、私は考えます。浜田氏の意見は、現在の制度からはみ出した子供の行き場を作り、別の学びを提供する有意義な学校形態だと思います。

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いじめと不登校 - 4 ( 門脇厚司・清水賢二氏 )

2021-03-29 09:21:29 | 徒然の記

 門脇氏は先般名前だけあげて、意見を紹介していませんでしたので、今回取り上げます。理由は氏の主張が、典型的な反日左翼学者のスタイルだからです。現状を批判攻撃しますが、対案は持っていない、持っていたとしても空疎な観念論でしかなく、具体性がない・・・と、こういうものです。

  3. 門脇厚司氏 昭和15年生 筑波大教授  85ページ

 「ありていにいえば、近代学校は、教育を受ける者の人生を豊かにするため、」「教育を行う場所でなく、教育を強制する側の利益や都合のため、」「教育を行う場所として作られている。」

 「さらに言えば、国家の力の大元になる産業の発展に役立つ人材を、」「探し選抜するために教育の機会を与え、」「競争試験をする場所と言っても良い。」「そうであるにならば、学校が整備され、」「教育の仕方が洗練されればされるほど、」「子供たちの違和感が募るのは、当然と言える。」

 筑波大学は、明治5年に日本で最初に設立された師範学校で、かっては東京師範学校と呼ばれていました。師範学校とは、教員を養成する学校を意味しますから、筑波大学は元々は教員を育てる大学でした。今でこそ卒業生の進路は、教員より一般企業へ進む者が多数を占めていますが、私の記憶ではいまだに「先生のための大学」です。

 文部省の指定するスーパー・グローバル大学の一つで、世間の評価では一流大学ですから、その大学の教授である門脇氏が、学校そのものを否定する意見を堂々と述べているところに、違和感を感じます。氏の教えを受けた学生たちが教師になり、学者になり、公務員になれば、日本の教育がますます崩壊します。

 氏の主張そのものは何という特徴もありませんが、、こういう主張が大学で教えられているところに、危機感を抱きます。「獅子身中の虫」である氏に育てられた学生は、日本各地へ拡散し、行った先で「獅子身中の虫」となります。一流大学の卒業生ですから、エリートとしての扱いを受けます。

  浜の真砂は尽きるとも、世に反日( 左翼 )の種は尽きまじ

 まさに私が、石川五右衛門から盗作して完成した辞世の歌、そのままの現実です。

 「父親たちが、会社人間から地域人間に転身する決意を固める必要がある。」「日本の男性がこのような決意をした時、会社大国日本の体質に変化が生じ、」「それにつれ学校もまた、子供たちを人間として育める方向へと、」「大きくそのあり方を変えていくことになるであろう。」

 「とりあえずの改善提案」と題された、氏の結論です。批判と破壊の大きさに比較すれば、この提案の曖昧さと具体性の軟弱さに首を傾げます。こんな氏が馘首もされず、大学に居座っている事実の中に、日本教育の崩壊を見る気がいたします。

  4. 清水賢治氏 昭和18年生 日本女子大教授  101ページ

 「責められるべきは子供でなく、本来そうした可能性を持っている子供を、」「無造作にイジメに走らせてしまった、家庭や学校、」「そして地域社会等の、子供とのつながりの脆弱さであり、」「子供たちに、十分な自己抑制力を身に付けさせることのできなかった、」「教育環境の貧困さである。」

 一読しますと、正論のように思えますが、氏の意見もまた学校教育の否定という「既定のスタイル」です。目新しいところを言えば、教育問題の原因として、学校を一番目に上げず、家庭を持ってきているところと、地域社会を加えているところです。

 「子供を非寛容的に統制するのでなく、イジメ行為そのものを問題視し、」「それに対応しなければならない。」「ここまでは許せるといういじめと、絶対に許されないいじめとの、厳しい仕分け、」「すなわち的確な、いじめ診断作業を進めることが大切だろう。」

 それができないから、多くの関係者たちが苦労しています。同じ反日左翼教授の中には、氏の薦める医学的診断作業を、有害な方法だと否定する人物もいます。要するに彼らは、てんでに自分の思いを述べているに過ぎません。私が最も驚いたのは、113ページの結論です。

 「子供達の間での、現代いじめの根源的回復対策。」「それは子供達に何かを求めるより先に、私たちの間にもう一度、」「人と人とが共生する上で必要な、確かなモノサシの再確認、」「あるいはこれまでの、和を強いる日本的規範を超えた、」「新たなモノサシを形成するしかない、という結論に向かっていく。」

 つまり氏が否定しているのは、私たちが大切にしている「和を持って尊しとなす」という、聖徳太子の教えです。反日左翼教授たちは、岩波書店の出版物を媒介として、「日本文化と伝統」の破壊を頑張っているのだと分かります。

 馬鹿にできないのは、彼らの使う「共生」とか「寛容」などという日本文化否定の用語が、23年後の今日、マスコミで盛んに使われるようになったという事実です。この書はまさに、「日本をダメにする害虫」の集積物 ( 巣 ) です。

 自分としては、腐臭の漂う悪書でしかないので、「武漢コロナ」の汚染物のように、ゴム手袋をしゴミ袋に入れたい気持ちです。愛する息子や可愛い孫たちのためには、もうしばらく我慢し、彼らの意見の恐ろしさを説明すべきかと、ここで迷います。一旦休んで、考えます。

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