5. 森田洋司 昭和16年生 大阪市立大教授 127、132ページ
「日本社会における私事化」、「いじめの四層構造」などと聞き慣れない新しい言葉を使い、D・オルヴェウス、P・K・スミスという外国の学者の説を引用していますが、内容に真新しいものはありません。
「私事化とは簡単に言えば、" 公 " 重視から、" 私 " 重視への転換であり、」「社会が近代化していく過程で、生きる意味や価値を、」「私的な生活世界に求める傾向が、強まることです。」
個人の自由や権利が叫ばれるようになった、戦後の日本なのだと分かりましたが、氏の意見も過去の日本否定です。
「集団や組織に飲み込まれ、蔑ろにされがちだった私生活や、」「その中心にいる" 私 " を大切にする、ライフスタイルが登場してきたという意味では、」「歓迎すべきことである。」
「今子供たちの世界で問題となっている、不登校やいじめや非行などは、」「社会の深層を流れる、この私事化という大きな動きの表層にある、」「波紋や渦として理解しなければ、対応できない側面を持っている。」
反日左翼教授らしい意見へと、傾斜していきます。
「この傾向は、社会全体の人々のライフスタイルが、 " 滅私奉公型 " 社会から、」「 " 活私型 " 社会へと転換していることの表れであり、」「自分を大切にする風潮が、社会に浸透したことでもある。」
「私事化社会の到来それ自体が、問題なのではない。」「" 個 " という存在が共同体や組織に縛られ、埋没した状態から、」「個々人が、それぞれの表情を持つ顔を見せ始めた段階へと、」「時代が変わりつつあることは、むしろ歓迎すべきことである。」「私事化の動向が様々な問題を生み出しているとすれば、」「それはとりもなおさず、日本社会の中で、」「私事化が成熟していないことを示している。」
氏の言は、今はその過程であるという楽観論でもあります。結論はこれがまた、意味不明な観念論です。
「社会の深層の流れのプラス面を伸ばしつつ、いかにしてマイナス面を極小化行くかという課題が、」「横たわっていることを忘れてはならない。」「自立した個の輝きを図りつつ、個と個の共同生活を担いうる資質と能力を、」「いかにして子供たちに培うことができるかに、かかっている。」「いじめ問題の解明と克服には、こうしたマクロの視点を睨んだ対応が、」「必要な段階に来ていると言える。」
昔の日本を否定するという目的以外に、氏は何を達成したのでしょう。無意味な言葉を繰り返し、なんの解決にも結びつかないお喋りをしているだけです。
6. 浜田寿美男 昭和22年生 花園大教授 編者の一人 154ページ
氏の意見を紹介するのは初めてですが、『いま教育を問う』では執筆者の一人でしたから、私は既に読んでいます。わざわざ取り上げたのは、反日左翼学者とはいえ、氏の意見に傾聴に足る部分があると思うからです。反日左翼嫌いだからと言って、何にでも反対している訳ではありません。
問題は氏の意見を、どのように具体化させていくかということです。現在の学校制度を全否定したのでは、角を矯めて牛を殺すことになります。氏の提案する形の学校が、全国のどの地域に、どの程度の数で存在すればいいのか、将来の課題として検討に値します。
「学校はこれまで、同年齢の健常な子供たちを寄せ集めて、」「効率よく教える場であろうとしてきた。」「しかし少なくとも、小学校と中学校については、」「この発想を根本的に見直す必要があろう。」
「学校は子供たちだけの集団の場でなく、その一世代、二世代前の大人たち、」「つまり教員、職員が共に生活する場である。」「子供たちだけの中で見ても、小・中学校合わせれば、」「12年に及ぶ年齢差がある。」
「その中にはもちろん、男もいれば女もいる。」「軽重様々な障害を持つ子もいれば、持たない子もいる。」「学校が本来、そうした多様な人間によって構成される集団であることに注目すれば、」「そこに、守る ー 対等性を生きる ー 守られるという、」「重層性が成り立つ可能性を、見ることができるはずである。」
「生活の場には、もっぱら守る人と、もっぱら守られる人がいるのではない。」「同じ人が守りもする、守られもする、あるいは対等にやり取りもする。」「それはあまりに非現実的な、理想主義に聞こえるかもしれない。」「現在の学校状況と、この発想の隔たりは大きく、一見したら夢物語でしかない。」
氏の夢想する学校には、教室の壁がなく、オープンスクール形式で、子供たちが入り混じって勉強します。教師も職員も、自由に参加するという場所になります。「保健室登校生徒」や、「行き場のない不登校生徒」も、こういう場所なら参加できるのかもしれません。
ただ、全ての学校をこのようにすべしという極論には賛成しません。勉強の嫌いな子がいるように、勉強の好きな子供もいます。勉強の好きな子には、こういうオープンスクールは逆に苦行の場所になります。
私のように、定年退職後から勉強を始めたような者には、生涯学習の場としてオープン化された教室があれば、若い人たちに混じって学ぶのも楽しい気がします。長寿社会が到来したのですから、学校も施設の何割かを公開し、社会人と共有する工夫も良いような気がします。
その場合でも、現在の学校制度が中心となって運営されるのが正しいと、私は考えます。浜田氏の意見は、現在の制度からはみ出した子供の行き場を作り、別の学びを提供する有意義な学校形態だと思います。