今井氏は、八路軍の紹介( 211ページ )で何を言いたかったのか。気になりますので、著作の中から、関連する部分を探してみました。
1. 日本軍と中国軍の比較 ( 100ページ ) 2. 毛沢東『持久戦論』続き ( 150ページ )
何気なく読んでいましたので、もう一度転記してみます。
〈 日本軍と中国軍の比較 〉
「わずか数日の滞在で、次の地点へ赴く日本軍兵士を、」「名残惜しく見送るのも、子供たちだ。」「列を離れて見送る子供を抱き上げ、別れを惜しむ兵士の姿など、」「まさに一服の図であろう。」
「支那の兵士は、一体に鈍感で、ぼうとしているだけに、」「子供をあまり可愛がらないようである。」「うるさいと、本当に殴ったりするので、」「子供も怖がってあまり近寄らず、」「別れを惜しむなどということは、絶対にないそうだ。」
「のみならず支那人は、好人不当兵 ( 良民は兵隊にならぬ ) と信じているために、」「敬して遠ざかり、軍隊が駐在すれば殆んど門戸をとざし、」「因縁の生ずるのを恐れて、子供も接近させないようにしているらしい。」
おそらくこれは八路軍の説明でなく、地方に割拠し、互いに争っていた軍閥の兵士のことだろうと思われます。軍服を脱ぎ、小さな集団となって農村に入る八路軍の兵士は、やはり違っていたのかもしれません。
日本軍の兵士が、子供たちを可愛がり、懐かれた事実を確認するのは、一つの安心であり救いでした。
〈 毛沢東『持久戦論』続き 〉
「敵側は、中国の泥沼に落ち込んだ数十個師団の軍隊を、」「そこから、引き出すことができない。」「広範な遊撃戦と、人民の抗日運動とが、この大量の日本軍を疲労困憊させる。」「一方では兵を大量に消耗させ、また他方では、彼らの郷愁、厭戦の気分を反戦にまで発展させて、」「この軍隊を瓦解させるであろう。」
昭和3年に出された毛沢東の『持久戦論』を初めて読みますが、中国の言う「情報戦」「神経戦」の走りであるような気がします。書が世に出された前年の昭和2年は、田中首相が東方会議を開催した年です。満蒙経営拡大論者の森恪外務次官が、強行な意見を述べていた時だと知れば、毛沢東の主張に、中国人の愛国心を認めずにおれません。
「日本の中国における略奪は、絶対に成功しないとは言えないが、」「日本は資本が欠乏しているし、また遊撃隊に苦しめられているので、」「急速に、大掛かりに、成功することは不可能である。」
「中国が独立国となるか、それとも植民地となり下がるかは、」「第一段階における大都市の喪失によって決まるのでなく、」「第二段階における、全民族の努力の程度によって決まる。」「この第二段階は、戦争全体のうちでは過渡的段階であり、」「また最も困難な時期でもあるが、しかしそれは、」「転換のための枢軸である。」
日本にとって大東亜戦争の大義は、欧米列強とソ連の侵略から日本を守るための「自衛戦争」でした。朝鮮併合、満州国の独立と進展するにつれ、中国にはこれが、「日本の侵略」となります。
私が知らなくてならないのは、三つの大義が衝突しているという事実でした。「日本の大義」、「毛沢東の大義」、「蒋介石の大義」です。三つの大義を引き起こした原点を辿れば、欧米列強によるアジアの植民地支配となりますが、この段階になりますと隠れてしまい、要因として意識されません。目につくのは、広大な中国に展開する日本軍の動きです。だから毛沢東が、国民に呼びかけます。
「もし抗戦を維持し、統一戦線を堅持し、持久戦を堅持することができれば、」「中国はこの段階で、弱いものから強いものに変わっていくだけの力を、」「獲得するであろう。」
先日のブログで、「中国共産党軍は弱いから、日本と正面切って戦えず、逃げ回っていただけではないか。」と、言いましたが、『持久戦論』を知った今、訂正しなくてなりません。彼らは、「弱いものから強いものに変わっていく力を獲得する」ための、努力をしていたのです。
「中国抗戦の三幕劇では、全出演者の努力によって、」「最も精彩のある終幕が、見事に演出できるであろう。」
毛沢東の『持久戦論』は、氏が紹介してくれた部分しか知りませんが、激しい戦争の中で「一筋の光」として、農村に展開する八路軍兵士の口を通じ、次第に中国国内に浸透していったのだと思います。
次回は毛沢東と八路軍でなく、列強の中での日本についてご報告します。