幕末以来、帝政ロシアの侵略を恐れていた日本は、祖国防衛のため、満蒙の地を支配下に置くことを考えていました。今回述べようとしているのは、だからと言って日本が中国を無視し、満州を侵略したのではないという事実です。
この間の事情を、電気通信大学の藤本昇三氏が次のように述べています。
「第 一次大戦 までの時期における孫文は、 日本が中国革命を援助することに、」「大きな期待をしており、その関連において、」「 満蒙問題に関して、日本に対しきわめて妥協的であったといえよう。」「孫 文はこの時期においては、主として武力に頼り中国革命の成功を図ったのであり、」「日本が革命勢力を軍事的に援助するならば、 日本に満蒙の権益を譲ることはやむを得ないと、考えていたのである。」
対立を深めさせたのが、毛沢東の指導する共産党でした。彼らは得意のゲリラ戰に住民を組み込み、各地で激しい抗日活動を展開しました。単なる抗議活動でなく、日本人の商店に放火し、住民を虐殺する暴力・破壊活動でした。
共産党による日本人への迫害・虐殺行為は、満洲から次々と内陸へ波及し、それを追う日本軍の攻撃も拡大していきます。そうなれば、中国統一を目指す蒋介石と衝突することになり、「泥沼」の戦争へと向います。
松井石根大将が、蒋介石との連携による「アジア保全の構想」を持ち、蒋介石との親交があったように、日本の中には数は少ないながら、同じ考えを持つ人物がいました。
もしかすると、著者である今井氏もその一人だったのかもしれません。336ページの叙述を、そのまま転記します。
「昭和20年7月、シナ派遣軍総司令部では、総参謀副長・今井武夫少将が、」「中国軍戦区で、会談を行うことになった。」
「今井は非武装で中国服をまとい、日中両軍の戦線を越え、」「中国軍前線司令部へ行き、司令官何柱国大将と会談した。」「今井は条件として、国体の護持と国土の保全を絶対条件とし、」「これが入れられなければ、あくまで交戦する意向を告げ、」「先方の条件を打診した。」
これに対し、何大将が次のように答えています。
「現状においては、すでに日中単独和平は絶対不可能である。」「万一日本が、中国との和平を希望するなら、」「それは同時に、世界の和平実現でなければならない。」
最初は日本軍を、中国統一のための協力者と見ていた蒋介石でしたが、戦域の拡大とともに連戦連勝する日本軍を警戒し始めました。日本軍は共産党同様の、中国統一を邪魔する敵となってしまいます。彼は支援を欧米に求め、国際連盟で「援蒋決議」までされていますから、この時点で日中戦争が世界戦争と化していました。何大将の言う通り、日中の意向だけで和平交渉ができなくなっています。
私が注目しましたのは、何大将の次の言葉でした。
「また中国は、日本が敗戦後滅亡することは決して望まず、」「むしろ戦後も、東洋の強国として残り、」「中国と手を携えて、東洋平和の維持に協力できるよう、」「全面的敗退に先立ち、国力を消耗し切らぬうちに、」「なるべく早く戦争を終結するよう、希望している。」
「中国は、万一日本の要請があれば、日本の和平提案を連合国に取り次ぐに、やぶさかでない。」「特に蒋介石主席は、日本の天皇制存続に好意を寄せ、」「すでに各国首脳に、その意向を表明している。」
今井少将は会談後南京へ戻り、総司令官今村寧次大将を経て、大本営に報告しました。大本営はこの情報に驚喜し、交渉が有利に展開するよう人事配置に着手します。
「しかしこの件は、大本営と政府間の連携不良のため、」「政府に報告されなかった。」「そのため、終戦の端緒を見出そうと苦悩中の政府は、」「中国に仲介の意思なしと即断し、ソ連に依頼し、」「返って、ソ連参戦の好機を与える結果となったのである。」
その後の動きについて叙述するのは、つらいものがありますので、著書にある昭和20年の年表から、事実のみを転記します。
7月12日 近衛公、遣ソ使節を命ぜられる
7月26日 ポツダム宣言、発表
8月6日 広島に原子爆弾投下
8月8日 ソ連、対日宣戦布告
8月9日 長崎に原爆投下 ソ連軍、満州、北鮮、樺太へ侵入
8月14日 終戦詔書発布
8月19日 関東軍降伏
次回からは、大畑篤四郎氏著『太平洋戦争( 上 )』を読みます。読書計画も、あと二冊で一段落します。