日本が、中国に対し長期持久戦の覚悟をした頃、ドイツがヨーロッパで、急速な勝利を収めていました。日本はドイツの動きに呼応し、三国同盟、北部仏印進駐と、もう一つの駒を進めていました。251ページの、氏の叙述を紹介します。
「しかし昭和16年に入ると、ドイツのイギリスに対する作戦が、」「思ったほど順調にいかず、イギリスがそれほど早く、」「ドイツに屈服しそうにない、形勢となってきた。」「ドイツに期待をかけていた軍部も、こうなると慎重にならざるを得なくなり、」「アメリカとの国交調整が始まった。」
同じ時期に、中国内部で大きな事件が起こりました。昭和12年の国共合作以来、蒋介石の国民党軍の中に、「新四軍」と呼ばれる共産党軍の部隊が編成されていました。蒋介石は昭和16年の1月に、その新四軍に移動を命じて、途中で待ち伏せし、全滅させてしまいました。理由は、八路軍や新四軍が、抗日戦を進めるにつれ、次第に成長していくことへの恐れでした。
「この事件のため、中国の二つの勢力である国・共関係が悪化し、」「国民政府は日本軍と戦う一方で、自国内の共産軍と戦わねばならなくなった。」
その傍らで、アメリカとの国交調整を開始した日本は、野村大使とハル長官の間で協議を進めていました。4月には「日米了解案」が、次の内容でほぼ纏まりました。
1. 日中間の協定によって、日本は中国から撤退する。
2. 中国の満州国承認
3. 蒋・汪両政権の合流
4. 日本の南方資源獲得に対する、アメリカの理解
5. 日中間の和平斡旋
この案は、日本にとって受諾可能と思われていましたが、立ち消えになってしまいます。
「外相松岡洋右は、このときヨーロッパを訪問し、」「帰路モスクワに立ち寄り、〈日ソ中立条約〉結んで帰国すると、」「〈日米了解案〉を大幅に修正した上、中立条約締結を提案したため、」「了解案は、葬られることになってしまった。」
氏の説明だけを読みますと、松岡外相が邪魔をしたと思われますが、近衛公の戦後の談話 ( 『敗戦日本の内側』 )を読みますと、事情が変わります。
「昭和15年の春に至り、ドイツは破竹の勢いをもって、」「西ヨーロッパを席巻し、英国の運命もまた、」「すこぶる危機に瀕するや、再び三国同盟の議が、」「猛烈な勢いで国内に台頭し来った。」
「昭和15年7月に、余が第二次近衛内閣の大命を拝したる時は、」「反米熱と、日独伊三国同盟締結の要望が、」「陸軍を中心として、一部国民の間にも、」「まさに沸騰点に達したる時、であった。」
三国同盟締結のおり、ドイツは日本に対し、ソ連との親善関係を仲介する約束をしていました。従って、首相だった近衛公の判断は、これにより英米に対する日本の立場が強固になれば、日中戦争の収束がしやすくなるというものでした。三国同盟にソ連を加え、同盟を強化しようという考えは、近衛公だけでなく、軍にもありました。
ところが同年( 昭和16年 ) の6月、ドイツが突然ソ連と開戦します。「独ソ不可侵条約」を、ドイツが破りました。ドイツ駐在の大島大使から、情報は入っていたのですが、参謀本部は半信半疑でした。
「まさかドイツが常識を破り、対英戦と対ソ戦の二正面作戦の愚を、するわけはあるまい。」と、判断していました。松岡外相が危惧して、リッペンドロップドイツ外相にメッセージを送ると。
「独ソ戦は不可避であるが、戦争は二、三ヶ月で終結しうる。」という、回答でした。ここにおいて、政府と大本営は本気で対策の検討に入ったと言います。
長い間、北方からのソ連の重圧に耐えていた日本にとって、独ソ開戦は絶好のチャンスでもありました。この際北辺の憂いをなくすべきという「北進論」と、仏印の石油・ゴム・スズを獲得するのが優先という「南進論」が激しく対立しました。閣内の意見不一致のため、近衛総理が総辞職し、同年10月に東條内閣が成立しています。
昭和16年は、今から考えますと、世界にとっても、日本にとっても、分水嶺の年だったということが分かります。資本主義と共産主義の戦いと同時に、枢軸国と米英との戦争が同時進行し、しかもドイツが同盟国ソ連に宣戦布告しています。
日本だけでなく、米・英・独・仏・ソが自国の存亡をかけて、なりふり構わない戦争に突入した年です。勝敗の決した現在から見て、日本の政治家や軍人を批判するのは簡単ですが、複雑に交錯する事実を知ると、それができなくなります。氏の説明によりますと、軍の内部は、大きく次のように分かれていました。
参謀本部・・北進論 陸軍省・・南進論 海軍・・情勢を見極めて決める
6月の独ソ開戦後、7月に開かれた御前会議で決定された、「帝国国策要項」を紹介します。〈 第一 方針 〉、〈 第二 要領 〉と分かれていますが、スペースの都合で、〈 第一 方針 〉のみの紹介とします。これだけでも、当時の日本が何を目指していたのかが、分かります。
1. 日本は世界情勢がいかに移り変わろうと、大東亜共栄圏を建設し、世界平和の確立に寄与する方針を守る。
2. まず、支那事変の処理に邁進する。自存自衛の基礎を確立するため、南方進出の歩を進める。北方問題は情勢の推移に応じて解決する。
3. 以上の目的達成のためには、どのような障害も排除する。
おそらく、近衛内閣の最後の御前会議での決定と思いますが、批判する気持ちはなく、むしろご先祖様の覚悟を尊いものとして受け止めました。「ネトウヨ」の言辞と憎む人もいるでしょうが、次回は、その理由を申し上げます。