4. 米内内閣 昭和15年1月から、15年7月まで ・・6ヶ月間
5. 近衛内閣 昭和15年7月から、16年7月まで (第二次近衛内閣) ・・約1年間
6. 近衛内閣 昭和16年7月から、16年10月まで (第三次近衛内閣) ・・3ヶ月間
7. 東條内閣 昭和16年10月から、19年7月まで ・・約3年9ヶ月間
82ページ、「日米交渉」のタイトルの叙述になりますが、大畑氏の説明を理解するには、やはり上記の内閣データが便利です。
昭和16年の4月、松岡外相はヨーロッパを訪問し、〈日ソ中立条約〉結ぶため、帰路モスクワに立ち寄るというスケジュールで、動いていました。
その傍らで、近衛内閣はアメリカとの戦争を回避するため、国交調整を続けていました。協議は、野村駐米大使とハル長官の間で進められ、4月には「日米了解案」が、次の内容でほぼ纏まります。
1. 日中間の協定によって、日本は中国から撤退する。
2. 中国の満州国承認
3. 蒋・汪両政権の合流
4. 日本の南方資源獲得に対する、アメリカの理解
5. 日中間の和平斡旋
この案は、先に紹介しました、今井少将の 『中国との戦い』 の叙述と重なります。帰国した松岡外相が、〈日米了解案〉を大幅に修正したため、交渉が行き詰まり、中断してしまう状況も同じです。
この時は書きませんでしたが、近衛首相が、英断を下しています。日米交渉の打ち切りを主張する松岡外相を辞任させるため、総辞職しました。総理の権限で、外相一人を罷免すれば良いという意見もありましたが、任命責任が自分にあるからと、総辞職を選びました。
今井少将に比べますと、大畑氏は近衛公に対し厳しい意見を述べます。これもまた、学者によって違う歴史が伝えられる例です。
「しかし、日米交渉を推進するため行われた、松岡罷免は、」「皮肉にも、日米交渉には何の役にも立たなかった。」
「松岡の反対を押し切り、第三次近衛内閣で行われた南部仏印進駐は、」「アメリカを決定的に反発させ、交渉の重大な障害となってしまった。」「近衛は、日米国交調整を何とかはかりたいと考えたが、」「こじれた局面を打開するうまい手も見つからず、右顧左眄していた。」
今井少将はこの局面を説明する時、軍部内での激しい意見の対立を語り、総理の決断の困難さを読者に伝えていました。
〈 参謀本部・・北進論 陸軍省・・南進論 海軍・・情勢を見極めて決める 〉
「国民に対しては、ABC包囲網が日本を囲い、経済的にも軍事的にも、」「絞め殺そうとしいてると、敵対心を煽る宣伝をしながら、」「開戦に踏み切る決心も、もちろんなく、」「近衛は結局、局面打開の最後の手として、」「ルーズベルトとの、直接会談を考えた。」
近衛首相が、ルーズベルト大統領との直接会談を進めようとしたのは事実ですが、軍の意見が激しく対立している時、どうすればよかったと、大畑氏は言いたいのでしょう。
「アメリカは元来、事務レベルで見通しを得られないのに、」「首脳会談を開いて解決すると言った方式を、好まない。」「何の対策もなく、〈話せば分かる〉式に会議を開こうとした、」「近衛の甘さと不用意が、日本側での失敗の一因であろう。」
近衛首相を酷評し、松岡外相を冷笑する氏には、困難の中で苦労している当事者への理解がありません。海軍と陸軍の信じられない対立関係と、陸軍と参謀本部の激論など、氏は読者に説明すべきではないのでしょうか。
結局、近衛第三次内閣は、閣内の意見不一致のため3ヶ月で総辞職し、同年10月に東條内閣が成立しています。
氏が近衛首相を目の敵にすると、つい異論を挟みたくなります。公の戦後の談話を紹介した、富田健治氏著『敗戦日本の内側』 を重複しますが転記します。面倒と思われる方は、スルーしてください。
「昭和15年の春に至り、ドイツは破竹の勢いをもって、」「西ヨーロッパを席巻し、英国の運命もまた、」「すこぶる危機に瀕するや、再び三国同盟の議が、」「猛烈な勢いで国内に台頭し来った。」
「昭和15年7月に、余が第二次近衛内閣の大命を拝したる時は、」「反米熱と、日独伊三国同盟締結の要望が、」「陸軍を中心として、一部国民の間にも、」「まさに沸騰点に達したる時、であった。」
三国同盟締結時に、ドイツは日本に、ソ連との親善関係を仲介する約束をしていました。近衛公の判断は、英米に対する日本の立場が強固になれば、日中戦争の収束がしやすくなるというものでした。三国同盟にソ連を加え、同盟を強化しようという考えは、近衛公だけでなく、松岡外相にも、陸軍にもありました。
他人事のように近衛首相だけを、批判攻撃して済む話ではないはずです。