ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『中国との戦い』 - 8 ( 南京事件・今井氏の誤解 )

2021-11-15 22:10:51 | 徒然の記

 106ページに、「南京占領」と言うタイトルで、占領時の状況が説明されています。

 「昭和12年の11月13日、朝になって場内の中国軍はほとんど逃げ去り、」「その後へ日本軍が入城し、残敵の掃討に当った。」

 氏はここで、戦車隊長・藤田実彦少佐の著作『戦車戦記』の一節を紹介しています。

 「歩兵隊の主力が、中華門から南京城に続々入場した時、」「付近の城壁上には、敵兵は一兵も姿がなく、」「雪崩撃って進撃する歩兵たちは、必ず城壁に登り、バンザイを叫んでいた。」

 「どの部隊にも、白い木綿の布で包んだ戦友の遺骨を、首から胸にかけている兵を見た。」「彼らは戦友の遺骨を、頭上高く掲げ、バンザイを叫んだ。」「その目には涙が光り、震える声で、バンザイを叫んでいる兵もいた。」

 氏はもう一人、南京攻略戦に参加した佐々木至一少将の著作、『南京攻略記』の一部も紹介しています。

 「守将が逃げた後に残された支那兵ほど、惨めな存在はないのである。」「彼らにはもはや退路がなかったので、死に物狂いで抵抗した。」

 「敗残兵といえども、なお伏して狙撃を続ける者がいた。」「抵抗する者、従順の態度を失する者は、容赦なく殺戮した。」「終日各所に、銃声が聞こえた。」

 「骸骨となった家屋の焼け跡で、各所で盛んに火勢が上がっている。」「住民は、一人も顔を見せない。」「痩せ犬だけが、無表情に歩いたり寝そべったりしているのである。」

 そして次の叙述に、私は驚きました。

 「戦後の国民はもちろん知らなかったが、南京占領当時の日本軍の行動は、」「南京虐殺事件として、早くも世界に伝えられ、」「伝統ある名誉を大いに傷つけた。」

 「事件の全容については不明の点が多いが、市民の被害は、」「死者一万数千人以上という者もあり、」「家屋の破壊、放火、略奪、暴行などが行われた。」「中国側が戦後発表した資料によると、数十万もの市民が殺されたことになっているが、」「これは正規戦闘よる戦死や、掃討戦による便衣隊の死亡も加えられているようである。」

 「日清・日露戦争当時に比較して、道義心が低下していたことは事実であった。」

 「戦争中は国内での報道が禁止され、国民は戦後になって初めてこれを知った訳であるが、」「戦争に伴って起きた、呪うべき非情な事実は事実として、」「深く反省しなければならない。」

 3年前の 1月に、田中正明氏の著書『南京事件の総括』を私は読みました。松井石根(まつい いわね)陸軍大将は、南京占領時のトップにいたため事件の責任を問われ、東京裁判 ( 極東国際軍事裁判 )で死刑判決を受け、処刑されました。

 一度ブログで取り上げましたが、今井氏の説明を読み、再度言及することにしました。著者の田中氏は松井石根大将の秘書を務め、大将と蒋介石の会談に同席した経歴の持ち主です。

 蒋介石の中国軍を撃滅すべしという、強硬論が大勢を占める中で、むしろ松井大将は、中国との連携が大事と考える少数派の軍人でした。蒋介石との連携による「アジア保全の構想」を持つ大将は、蒋介石との親交もありました。

 昭和3年に張作霖爆殺事件が勃発した時、首謀者である関東軍河本大佐の厳罰を要求しました。このため若手の将校の間では、頑固者扱され、敬遠する声も多かったと言われています。重複しますが、田中氏の著書から、引用します。

 「昭和13年 (1938年) 1月16日、近衛文麿首相の、」「蒋介石を相手とせず宣言 ( 近衛声明 )で、すべてが終わった。」「松井は、軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、」「2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。」

 「3月に帰国し、静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、」「日中両兵士の犠牲は、アジアにおける欧米諸国の植民地が、」「いずれ独立するための犠牲であったと考え、松井はその供養について思いを巡らせた。」

 「昭和15年(1940年)2月、日中戦争における日中双方の犠牲者を弔うため、」「熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建て、そこに住み込み、」「毎朝観音教を、あげていた。」

 松井大将を知る田中氏は、東京裁判で冤罪で処刑された大将の名誉を回復すると、心に誓います。GHQのいる間は本が出せないため我慢し、昭和62年に、氏が76才の時単行本で出版しています。私が読んだのは、死後の平成19年に、文庫本として再出版されたものでした。

 氏の著書『南京事件の総括』が出版されたのは、昭和62年と平成19年ですから、今井氏の著書が書かれた時は、まだ世に出ていません。氏が引用しているのは、下記二冊ですが、まずもって二冊の引用部分には、大虐殺のことが書かれていませんので、もし田中氏の著作を読んでいれば、今井氏の説明は変わっていたと思います。

  藤田実彦少佐の著作『戦車戦記』  佐々木至一少将の著作、『南京攻略記』

 田中氏の願いと、松井大将の冤罪を晴らすため、次回はもう一度「南京事件」の再確認をしたいと思います。皆様の「ねこ庭」へのご訪問をお待ちしています。

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『中国との戦い』 - 7 ( モグラ叩きのもぐら )

2021-11-15 12:31:10 | 徒然の記

 蒋介石や毛沢東と戦う日本軍について、列国はどのよう見ていたのか、123ページで氏が説明しています。

 「満州事変の最中に日本が脱退した国際連盟は、昭和12年9月に開会し、」「中国はその総会に、日中戦争問題を提起した。」「しかし連盟は、中国の無防備都市に対する日本軍の爆撃を、」「非難するにとどまった。」

 「同年12月にブルッセルで開かれた〈 9ヶ国国際条約会議 〉で、連盟は日中戦争に干渉しようとしたが、」「中国の期待する対日制裁決議は、成立しなかった。」

 しかしアメリカの対日姿勢は、満州事変以来悪化し、日中戦争突入後次第に深刻化していきます。

 ・昭和12年10月5日 ルーズベルト大統領がシカゴ演説で、日本とイタリアを侵略国と論難した。

 ・昭和13年6月   アメリカ国務相が声明を発表し、日本を「 9ヶ国条約」と「ケロッグ不戦条約」の違反者と断じた。

 イギリスは日中戦争の開戦当初は、不介入の態度を言明していましたが、上海・南京攻略中に、日本軍がイギリス大使の車を中国車と間違って射撃し負傷させた事件から、こじれました。さらにその後、南京に向かっていた米英軍の艦船を誤爆する事件が発生しました。

 「三カ月間の外交交渉の末、賠償金の支払いで解決したが、」「一度悪化した両国との感情のもつれは、」「もはや元に戻らなかった。」

 ・アメリカは、日中開戦当初から、政府所有船による日中向け「武器禁輸」を実施していた。

 ・昭和13年11月の、近衛総理の「東亜新秩序」の声明に対してアメリカは、直ちに「門戸開放原則」の厳守を申し入れた。

 ・昭和13年12月、 アメリカはイギリスとともに、蒋介石の「反日政策」を支援し、「援蒋借款」を与えた。

 ・昭和14年1月、国際連盟の名をもって、「援蒋決議」を採択した。

 アメリカとイギリスは、この時から蒋介石への本格的支援を開始し、これが後に日本軍を悩まし続ける「援蒋ルート」になります。反共のアメリカとイギリスは、共産党軍と戦う蒋介石を支援しつつ、同時に間接的な日本攻撃を始めました。

 一方で、共産党軍を率いる毛沢東は、コミンテルンに支援されています。

  「 1. 国共合作を推進すること。」

  「 2. 労働者・農民の武装化を進め、人民内の革命的勢力機構を打ち立てること。」

  「 3. 中国共産党が、革命の主導権を握ること。」

 三つの指示を受けた毛沢東は、抗日戦遂行への意思を堅くしています。

 「さらにアメリカは、昭和14年7月、突然日米通商条約の廃棄を通告してきた。」「これは日本にとって、まさしく青天の霹靂であった。」

 次第に悪化する米英との関係は、そのまま孤立する日本の姿を映し出します。誤爆問題に関し、イギリスとの交渉が難渋した理由を、氏が説明しています。

 「この頃日本が、日独伊三国協定を推進していた空気が、交渉を難航させる原因となっていたのである。」

 近衛内閣のブレーンの尾崎秀実が、政府の動きをゾルゲに伝え、毛沢東はコミンテルンから、日本の状況を知らされています。毛沢東の強気の背後に、この情報があると思えば、戦争の泥沼に引き摺り込まれていく日本の様子が、伝わってきます。

 「昭和12年末、中国大陸に派遣されていた日本の勢力は、」「すでに16師団にのぼり、50万人を超えている。」「戦えば必ず勝ち、多くの地を手中にしたのは確かだが、」「しかし実際には、鉄道沿線の大都市を連ねた〈点〉と〈線〉に限られ、」「常に中国軍のゲリラの脅威に、晒されていた。」

 氏の説明を読みますと、政府も軍も、楽観していないのだと分かりますが、事態は改善されません。

 「日本陸軍が仮想敵と考えていた、ソ連に対する戦備の充実はなかなか進まず、」「わずか5個師団を基幹とした関東軍は、四倍にのぼる優勢なソ連極東軍と、ソ連との国境で対峙していた。」「だから日本は、なるべく早く日中戦争を解決して、」「北方の不安を解消したいと、熱望していた。」

 日中戦争の解決を熱望していながら、近衛首相は「蒋介石を相手にせず」と声明を出し、軍部は徐州、広東、武漢を占領していきます。手薄になったソ連との国境で、ノモンハン事件が発生し、激しい戦闘が始まり、幸い外交交渉で停戦合意をしますが、紛争の火種が残ります。

 軍中央部では、戦争拡大派と不拡大派が激論を交わし、政府内では、森恪外務次官や松岡外相のような強気の人間と、幣原氏のような欧米協調路線の人物が、せめぎ合っています。本を読み、過去を知るほどに、大東亜戦争への評価の難しさを感じる私です。

 敗戦後、打ちのめされた日本を見て、戦前の軍や政府を断罪する反日学者たちへの疑問が、自然と湧いてきます。彼らは、アメリカ側の立場、中国側の立場、ソ連側の立場と、戦勝国の側に立ち、自分の国である日本を叩き続けます。マスコミも、彼らの日本批判と攻撃をそのまま報道します。

 戦後75年間このような状況が続いてきました。日本の国を思う保守の学者や、言論人の意見は、ほとんどマスコミが取り上げないため、国民には伝わりませんでした。「憲法改正」をできなくし、「皇室護持」をさせなくしているのは、今ではGHQでなく、日本の中にいる反日・左翼勢力です。もっと言えば、自民党の中にいるリベラル勢力です。

 私に対して、「文句があるのなら、アメリカへ行って言え。」と言う人がいますが、GHQもアメリカも過去の話です。現在の日本で、日本をダメにしているのは、日本人自身なのです。

 反日・左翼学者、 反日・左翼野党、 自民党内のリベラル議員、 反日・左翼マスコミ・・こういったいつものメンバーです。「モグラ叩きのもぐら」と、言いたくなるではありませんか。

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