ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『太平洋戦争 - 上』 - 6 ( 二つの近衛公像 )

2021-11-25 19:13:31 | 徒然の記

 「こうして、米内内閣は倒れた。」「代わって近衛が、第二次内閣を組むことになる。」

 48ページの書き出しの文章です。慌ただしい内閣の入れ替わりですから、やはり下記のデータを参考に入れます。

   1. 近衛内閣  昭和12年6月から、14年1月まで

     2. 平沼内閣  昭和14年1月から、14年8月まで

     3. 阿部内閣  昭和14年8月から、15年1月まで

     4. 米内内閣  昭和15年1月から、15年7月まで

     5. 近衛内閣  昭和15年7月から、16年7月まで (・・第二次近衛内閣  ) 

     6. 近衛内閣  昭和16年7月から、16年10月まで (・・第三次近衛内閣  ) 

     7. 東條内閣  昭和16年10月から、19年7月まで 

 相変わらず大衆小説家が読者を喜ばせるような、軽い文章が続きます。

 「この時新外相として、脚光を浴びて登場した人物こそ、」「ドイツと固く手を握り、あえて心中も辞さないという、」「元満鉄総裁松岡洋右であった。」「自信過剰で我が強く、話し出すと、自らの雄弁に自ら陶酔し、」「大風呂敷を広げるような、男であった。」

 48ページから、この章の終わりの66ページまで、松岡外相の独走ぶりが語られます。三国同盟締結、日ソ不可侵条約の締結など、よく知られている松岡外相の行動です。ヒトラーと対談し、スターリンと対話し、得意の絶頂にあった彼は、日米協調の有田外交をひっくり返します。その出発点が、荻窪会談でした。

 「組閣の大命を受けた近衛は、外、陸、海相に予定していた、」「松岡洋右、東條英機、吉田善吾の三人を、」「組閣前に荻窪の私邸に招き、重要国策について意見を交換した。」

 ここで決定された基本政策が、次の4項目です。

  1. 日独伊枢軸の強化

  2. 対ソ不可侵条約の締結

  3. 「東亜新秩序」に、英仏蘭葡の植民地を含ませ、南進を図る

  4. アメリカの実力干渉を排除する

 「ここで決定された政策は、日本の重大な転換をなすものであった。」「南方の資源を確保するため、従来の北進から南進へきっぱり進路を定め、」「アメリカの干渉を排除する覚悟を明らかにした、強硬な瀬戸際政策であった。」

 国運を左右する重大な会議ですが、誰がどの政策を強く主張し、誰が異を唱えたのか、氏は説明していません。

 「近衛首相は、このような会議の場合はもっぱら聞き役にまわり、」「率先して、五相会議をリードするようなことをせず、」「ある時は右の如く、あるときは左のごとくで、自分の意見を示さず、」「非常に曖昧な態度をとっていた。」

 第一次近衛内閣時を説明する時、氏は近衛公を、意見を言わない総理として描いていました。第二次内閣の組閣前に、私邸で大事な会議をする時も、公は聞き役で終始したのでしょうか。東京裁判で、戦争遂行の首謀者として死刑宣告をされた東條氏と、獄死した松岡氏の名前を挙げておけば、二人が会議をリードしたように見えると思ったのでしょうか。

 大畑氏が学者の一人なら、国民をみくびらず、事実を省略せずに叙述して欲しいと思います。氏は公については、世間の評判どうり、優柔不断な愚かな人物として語っていますが、私の知る公は別の姿をしています。

 「当時華族の子弟は、学習院高等科に進学するのが通例だったが、」「近衛は一高の校長だった新渡戸稲造にひかされ、一高に入った。」

 「卒業後、哲学者になろうと考え、東京帝国大学哲学科へ進んだ。しかし満足せず、」「京都帝国大学に転向し、河上肇や米田正太郎に学んだ。」

 河上肇は有名な『貧乏物語』の著者で、マルクス経済学者であると共に共産主義者でした。米田正太郎は、被差別部落出身の社会学者です。河上肇との交流は1年間に及び、彼の自宅を頻繁に訪ね、公は社会主義思想に共鳴していたと言われています。

 五摂家の筆頭という家柄の公は、加えて二つの帝大へ行ったという高学歴の持ち主です。180cmを超える高い身の丈で、貴公子然とした風貌の公が、対英米協調外交に反対し、既成政治打破的な主張をするので、大衆的な人気もあり、早くから将来の首相候補と目されていたと、・・こういう情報があります。

 対英米協調外交に反対するということは、ドイツ側に立つということですし、河上肇を通じて社会主義に共鳴していたのなら、対ソ不可侵条約に反対を通すことはないだろうと、推測されます。松岡外相や東條陸相の意見に押し切られるまま、重要な国策を認めたというのではないと、私は考えます。

 決断力のない、臆病で無責任という世間の評価に、私は最近疑問を抱いています。むしろ公は、さまざまなことを理解し、思索を巡らせながら、他人の意見を聞いていたのではないでしょうか。大東亜戦争の敗北の責任というものが、もしあるとすれば、東條元首相以下5人の殉難者にでなく、近衛公にあると私は考えます。

 公は、東京裁判所からの出頭命令を受けた時、家人の寝静まった明け方に、青酸カリを飲み自決しました。世間では裁判での死刑判決を恐れ、自殺したと言いますが、自殺ではなく自決だと、私はこの通説にも異を唱えます。

 自殺は個人的なものですが、自決は軍隊や政府などの組織で、指導者が責任を取る場合や、自分の主義主張を貫くために選ぶ死です。公の遺言を読みましたので、更にその感を深くしています。遺書から読み取れる自決の理由を、私なりに考えて見ました。

  ・総理として、敗戦の責任をとる。

  ・陛下へ累を及ぼさないため、裁判を拒否する。

 優柔不断で臆病な人物に、自決はできません。異論は多々あると思いますが、自分の考えを述べさせて頂きました。次回は著作を離れ、横道へ進み、大正7年に公が、雑誌『日本及び日本人』に寄稿した一文を紹介いたします。

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