ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 37 ( 今に生きる皇統の歴史 )

2023-01-07 21:31:24 | 徒然の記

 クーデータそのものは、成功した後では簡単な叙述になります。期待された方はがっかりされるかも知れませんが、説明はいたって簡潔です。

 ・そのうち、三韓の朝貢の使者が来た。

 ・宮中で品々を奉献する日に、入鹿も出席する。

 ・斬殺する手はずを決め、これを実行した。

 ・中大兄皇子は自ら剣(つるぎ)を振って、入鹿の頭や肩を切ったのである。

 ・女帝皇極天皇は驚かれてなすすべを知らず、どういうことかと聞かれた。

 ・中大兄皇子は、床に伏して答えられた。

 ・「入鹿は天皇の一族を滅ぼし尽くして、皇位を傾けようというものです。」

 ・「天孫である皇統が、入鹿ごときに取られて良いものでしょうか。」

 ・その後、蝦夷も誅された。(誅とは、罪のある者を罰すること、殺すこと。)

 クーデターに関し、いかに鎌足の計画が周到であったか、氏の解説を紹介します。

 「まず仏教信者の軽皇子に近づいてカモフラージュし、しかも蘇我氏の中でも、蝦夷・入鹿親子と勢力争いの関係にある蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を味方に引き入れ、入鹿暗殺に参加させるのである。」

 「彼は馬子の孫で、入鹿とは従兄弟である。馬鹿に羽振りの良い入鹿に対して、反感を持っていたことは間違いない。そして彼の参加がなかったら、クーデターは成功しなかったであろう。」

 ここでも氏は少し横道へ外れ、貴重な史実を教えてくれます。

 「この時、蘇我氏の持っていた『天皇紀(すめらみことのふみ)』や『国記(くにのふみ)』が焼失した。西暦645年のことである。」

 「『古事記』や『日本書紀』のできる七、八十年前のことであり、極めて重要な文献が焼かれたことになる。」

 「中大兄皇子と中臣鎌足のクーデターを、頼山陽は『日本楽府』の中で、七行でまとめた。意味を補いながら訳してみよう。」と言って、漢詩の意訳を述べます。徳岡氏の意訳とは、また違った味わいがあります。

  そうです。中大兄皇子の靴が大化の改新のきっかけなのです

  靴が脱げ鞠が落ち、皇子の足はつまづきました

  そのように皇子も、志を得ないでぐすぐすしていたのです

  蹴鞠が落ちたくらいなら、拾えば良いわけですが

  国家が落ちて滅びそうなのは、どうしたらよいであろうか

  私、鎌足めは、貴方の靴を拾い、それを捧げて足にお履かせします

  貴方はその靴を履いた足で鞠を蹴るように

  あの不届な入鹿をひと蹴りして、お斃しなさいませ

  私はこの手で扶桑の木を植えるように、再び立派な国をつくるお役にたちましょう

 クーデターが成功しても、中大兄皇子をすぐに天皇にしないところに鎌足の深慮遠謀があったと言います。まず彼は、皇極天皇の弟で仏教派の軽皇子を皇位につけました。第三十六代孝徳天皇です。

 以後は文章体を止め、いつものように事実の列挙をします。

 ・中大兄皇子の腹違いの兄であり、仏教信者である古人大兄皇子を、出家して吉野へ行くように仕向けた。

 ・中大兄皇子は叔父である孝徳天皇の皇太子となり、鎌足と共に大化の改新を実行した。

 ・実権を握りながら、仏教尊崇の傀儡政権を作り、邪魔になりそうな異母兄(古人大兄皇子)は僧侶にした。

 ・クーデターの同盟者・蘇我倉山田石川麻呂は日本最初の右大臣となり、鎌足は内臣(うちおみ)となった。

 ・孝徳天皇の在位十年の間に、中大兄皇子は、謀反を起こした古人大兄皇子を討伐した。

 ・さらにその後、クーデターの同盟者・蘇我倉山田石川麻呂の一族を滅ぼした。

 ・実権のない孝徳天皇が退位を申し出られ、その翌年に亡くなられた。

 ・中大兄皇子はまだ即位されようとせず、実母である皇極天皇に再度の即位を願う。

 ・これが三十七代斉明天皇であり、最初の女帝の重祚となり、女帝は神道尊重の天皇。

 ・残る危険な要因は、孝徳天皇の御子である有馬皇子で、俊敏強剛の噂があった。

 ・狙われていることを察していた皇子は、狂気のふりをしていたが、密告されて殺される。

 ・中大兄皇子は皇太子として実権を握り、母である斉明天皇の死を待つだけとなった。

 ・母の死後、中大兄皇子は第三十八代天智天皇として即位した。

 ここで初めて「宗教戦争」が終わり、皇統に神道が戻ります。息子たちと「ねこ庭」を訪問された方々に紹介したいのは、渡部氏の最後の解説文です。

 「欽明天皇の子供のうち、皇位に就いた方は四人おられる。そのうち三人までは蘇我氏の女を母としており、その系統には聖徳太子をはじめ多くの人材がいたのに、その子孫からは、その後永久に皇位継承者が出ていない。」

 「欽明天皇の子供の中でただ一人、敏達天皇だけは最初の皇后を蘇我氏の女にせず、仏教徒にならなかった。そして不思議なことに、そのご全ての皇位継承者は、敏達天皇とその最初の皇后の間にできた皇子の系統から出ているのである。」

 「神々と仏教は、日本では結局共存することとなるのであるが、皇位にある者が外国のカミを信ずることは、それだけの結果を生むことだったと考えて良いのではないだろうか。」

 八百万の神々のおられる日本で、天皇が異国の神を信じられると国と人心が乱れ、無用の殺戮が生じてしまうと、私は氏の言葉をそのように解しました。美智子様がキリスト教の説明を義宮様にされた時、昭和天皇が喜ばれなかったのはこういう歴史を踏まえておられたからではないでしょうか。

 次回は、「六闋 復百済   (くだらをふくす) 白村江の戦い    9行詩」です。

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『日本史の真髄』 - 36 ( 中臣鎌足と中大兄皇子 )

2023-01-07 15:55:49 | 徒然の記

 「五闋(けつ) 大兄靴   ( おほえのくつ ) 大化の改新」の漢詩に戻ってきました。渡部氏の言葉で言えば大化の改新はクーデーターで、中心となった人物は中臣鎌子と中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)です。

 欽明天皇の御世に、百済から渡来した仏像を天皇が拝まれることに反対したのも、中臣鎌子でした。氏の説明によりますと同姓同名の別人なので、紛らわしさを避けるため「鎌足(かまたり)」の名前を使うとのことです。

 仏教派の新貴族蘇我氏が専横を極め、皇位を左右しているのを許せないと考えているところは二人とも同じです。大化の改新がなされたのは西暦645年で、聖徳太子の死後23年が経っています。

 「天才的な知謀家で慎重無比の鎌足は、機会を狙っていた。」「中臣家の家職ともいうべき、神祗伯(かむつかさのかみ)に就けようとする誘いも固辞し、むしろ逆に皇極天皇の弟で、仏教好きの軽皇子(かるのみこ)と親しくしていた。」

 「しかし本当に擁立しようという意中の人は、舒明天皇の第二王子の中大兄皇子である。そしてこの皇子と接触する機会を待っていた。」

 氏の解説に従い、経過を紹介します。

 ・たまたま中大兄皇子が宝興寺で蹴鞠をしていた時、靴が脱げ落ちた。

 ・鎌足はその靴を捧げ持って皇子に近づき、知り合うことができた。

 ・これがきっかけで、二人は国家の現状を語り合う関係になった。

 ・あまり親しくすると怪しまれる恐れがあるため、塾へ通い儒学を勉強することとした。

 ・通学の路上で国家の改革を語り合い、あらゆる点で共鳴しあった。

 頼山陽の漢詩はこの様子を述べたものですが、背景を知りますと緊張した空気が伝わってきます。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉

   大兄靴

   靴脱し鞠落ちて 足蹉跎(さだ)たり 

   鞠の落ちたるは猶(なお)拾うべし

   社稷(しゃしょく)の堕つるを如何にすべき

   手に君の靴を捧げて君の足に納る

   君の足は一踢(てき)して妖鹿を斃(たう)せ

   臣の手は再び扶桑の木を植えん

 私は今まで日本を大きく変えた三つの出来事の一つとして、大化の改新を考えてきました。

  1. 大化の改新   2. 明治維新   3. 大東亜戦争の敗北

 大化の改新により豪族を中心とした政治が、天皇中心の政治に変わり、「日本」という国号と「天皇」という称号が正式のものになったと教わりましたが、「宗教戦争」という視点で考えたことはありませんでした。

 他の人は別の出来事を挙げるのかも知れませんが、私はこの三つのが大きく日本を変えたと今でも考えています。特に3番目の「大東亜戦争の敗北」は、日本人の心を萎縮させたまま、今もこの呪縛から国民が脱却できません。

 しかしこれは現在のテーマでありませんから、次回は「大化の改新」の核心部分を紹介いたします。

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