ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 43 ( 日本と百済の関係 )

2023-01-11 13:52:25 | 徒然の記

 頼山陽の詩が残り3行となりました。敗戦後の動きです。

   唐と吾と、孰(いず)れか得失

   忠義の孫子  海を踏みて来たり

   長く王臣となりて王室を護る

 「敗北した日本軍と、百済の主だった人々の日本への引き揚げが始まった。百済の人たちは、〈  もはや百済は滅び、先祖の墓所にも再び行くことはできない  〉と言って、日本軍の終結地に向かって行った。」

 「枕服岐城(しのふきのさし・今の全羅南道長城郡森猨面) にいた、彼らの妻子たちも集まって来た。そしてここから、日本軍、百済の重臣、多くの国民たちが日本の船に乗って出帆した。」

 この時氏が、思いがけない解説をします。

 「われわれはここで、ベトナム戦争の終末時を連想して良いかもしれない。アメリカ軍とベトナム要人とその家族と、運の良いベトナム人たちが、アメリカの船に乗ってベトナムへ脱出したのである。天智天皇の二年、西暦六六三年の秋のことであった。」

 半島からの引き揚げはこれで終わったわけでなく、その後もボートピープルがやって来たらしく、『日本書紀』の記録を紹介しています。

 ・665年 百済の百姓男女四百人余を、近江国神崎郡に居(お)らしむ 神崎郡の百済人(びと)に田を給う

     ・百済の男女二千余人を東国(あずまこく)に居(お)らしむ

     ・百済の重臣たちに恩賞を与え、一族の鬼室集斯(くいししふし)に五位を与え、学職頭(ふみのつかさ)に任ず

 ・669年 鬼室集斯、佐平・餘自信ら百済の男女七百人余に、近江国蒲生郡に居住地を与ふ

 「その墓は今でも滋賀県蒲生郡日野町の、鬼室神社(西宮神社)にある。このようにして百済の遺臣たちは朝廷に仕えたり、北九州の海岸の築城に参加したり、近畿や関東地方の開拓に従事したりしたという。文明国からの移住者が、移住先の文化や産業に貢献する例は要の東西を問わない。」

 ここで氏は宗教改革の時、カトリック国のフランスで迫害を受けたプロテスタントが、イギリスへ移住した例を挙げます。 

 ・いわゆるユグノーで、彼らは当時のイギリス人よりも技術工芸において優れていた。

 ・イギリスの産業を盛んにし、産業革命の基礎を築いたのはユグノーの子孫に多い。

 氏はここで当時の新羅が、文化的には日本人より優れていたことを認め、彼らの貢献を評価しています。朝鮮のことになると頭から否定し蔑視する学者でないことを知り、見習いたくなりました。反日教育を受け、日本を憎む韓国・朝鮮の人々と、日本で共存・同化した人々は区別して考えなくてなりません。難しい問題ですが、これは左翼学者たちのいう「差別」でなく、大事な「区別」です。

 「近い例では、ナチスに追われた学者を大量に受け容れたアメリカがある。アメリカの大学の学問的レベルが、ユダヤ人のおかげで急に上がったことはよく認められているところである。」

 昔のことを言えば、新羅だけでなく、今は敵対国となった習近平氏の中国からは、もっと多くの学者や僧侶が日本へ来て学問・文化の向上に貢献しています。中国や韓国・北朝鮮と共に仲良くできる「学問と文化の糸」が、今も繋がっていることを氏が教えます。

 「白村江の敗北で、日本は多数の人材を百済から得た。唐は朝鮮半島を征服したが、日本と唐とどちらが得をしたか、結果的には何とも言えない。これを頼山陽は、次のように表現した。」

 と言って氏は、最後の三行を紹介します。

   唐と吾と、孰(いず)れか得失

   忠義の孫子  海を踏みて来たり

   長く王臣となりて王室を護る

 「負け惜しみと言えば言えるが、事実の上から見れば、百済の忠臣は日本の皇室の忠臣になったのだから、頼山陽の言い方で良いことになろう。」

 戦いに負けたのは事実ですから、氏も頼山陽も負け惜しみだと思いますが、「六」の結びの言葉は心に刻む価値があります。

 「注意すべきことは、百済の忠臣が日本の神社にもなっていることである。古代において日本と百済は、同じ文化、あるいは同一民族意識であったと推定しても良いのであろう。」

 「また当時の海路の状況から言っても、多数の日本人や百済人が引き揚げできず残留したはずである。昔の百済の地域が今の韓国においても、他の地域とは違った意識を持たれていると聞くが、根はこんなところにあるのかもしれない。」

 反日の学者と韓国の反日学者は、渡部氏の意見を聞くと必ず反論するはずです。

 「彼は不遜にも、新羅が日本の領土であるかのような言い方をする。新羅には日本の影響など、昔から何も無い。」

 渡部氏はそんなことを述べているのでなく、中国や韓国・北朝鮮とは共に仲良くできる「学問と文化の糸」が、今も繋がっていると解説しているに過ぎません。韓国・北朝鮮との仲を割き、争いの種を撒いているのは、やはり日本国内の反日左翼学者たちでないかと、考えてしまう私です。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々はどう考えられるのでしょうか。

     七闋 放乕南    (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱                7行詩

     八闋 和気清    (  わけのせい  ) 和気の清麻呂と道教                7行詩

     九闋 遣唐使    (  けんとうし ) 帰らなかった遣唐使                  7行詩

     十闋 城伊澤    (  いざわにきづく  ) 桓武天皇と蝦夷征伐             8行詩

 次回は、「 七闋 放乕南 (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱 」を紹介します

コメント (4)
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