ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 51 ( 女性宮家の危険性 ? )

2023-01-16 19:02:31 | 徒然の記

 余分なコメントを入れず、渡部氏の解説を紹介します。

 「しかし清麻呂の報告は、一点の曖昧さのない明快なものだったので、女帝も道鏡に位を譲ることを断念せざるを得なかった。皇位  —  天津日嗣(あまつひつぎ)の位  —   は、一人の勇気ある人物の抗直さによって護られたのである。」

 「ここを頼山陽は、〈 和気の清(わけのせい) 〉という言い出しで総括してみせた。」

 「〈清を改めて穢(けがれ)と為すも清を損せず 〉というのは、清麻呂を穢麻呂と改名させたところで、清い心は変わらないと言うことである。」

 「清麻呂の清い心は、天地正大の気となり、広く天下に満ちるようになったと言うのが、〈 清気浩々として天地に塞がる 〉の意味である。天津日嗣の位、つまり皇位は〈赤日〉に例えられる。」

  「真っ赤な太陽にも比すべきわが国の皇位を護ることができたので、大空が晴れ渡って澄んだような感じである、ということを〈 赤日を護り得て天中明らかなり 〉と頼山陽は表現した。」

 「〈臣の舌は抜く可し〉、〈臣の語は屈す可らず〉というのは、絶大な権力を握っている道鏡を前にして、すばりと神託を述べた清麻呂の心意気だ。」

 「最後の一行、〈三寸の舌、万古の日〉とは、何という簡潔で力のある対句であろうか。清麻呂は三寸の舌をもって、万世一系の日輪にもたとえられる皇位を護ったのである。」

 氏の解説で、難解な詩が霧が晴れるように明らかになりました。

 「その翌年、女帝は亡くなられた。ちなみに道鏡は、造(みやっこ)下野(しもつけ)薬師寺に別当として左遷された。先帝の寵を受けていたので、刑には処さなかったのである。東国とはいえ、日本三戒壇のあるところである。失意のせいか道鏡は間も無く死んだそうだが、葬式は庶民扱いだったという。」

 別途調べたところによりますと、道鏡の失脚後清麻呂は大隅国から呼び戻され、豊前守に任ぜられ官界へ復帰したといいます。また配流中に伐採されていた郷里の祖先の墓ついても、祖先4名と清麻呂を美作備前両国の国造(くにのみやっこ)とする旨の詔(みことのり)が出されています。   

 道鏡に対する処置と言い、清麻呂の名誉回復の沙汰といい、朝廷の対応にはほっとさせられるものがあります。暗く重い書き出しであっただけに、寛大な結末の解説に救われました。

 「文武、聖武、孝謙、淳仁の各天皇は、いずれも天武天皇の系統であったが、称徳女帝が子なくして亡くなられると、天智天皇の系統の光仁天皇が出られたわけである。注目すべきことは、これ以後天武天皇系の天皇は一人も出ないということである。」   

 「皇統を妖僧に譲ろうとする天皇を出した系統からは、二度と天皇を出さない、というのが上古における暗黙の了解事項になったのではないか。」

 氏はこのように説明しますが、私は別の考えをしています。天皇の系列の問題より以前に、独身の皇女(ひめみこ)をそのまま天皇にしたという不自然さが、この不幸な出来事の起点ではなかったかと、そう思えてなりません。

 現在の問題に戻して考えますと、「愛子さまを独立宮家にする」という意見は、独身の女性天皇を誕生させる可能性があります。「結婚は両性の合意による」と、秋篠宮様が言われている通りだとしますと、愛子さまは好きな相手ならどなたとでもご結婚が可能です。眞子様の例がありますように、お相手が問題を抱えた家庭の男性だとしますと、皇室だけの不幸でなく国民の不幸にもなりかねません。

 イギリス王室のように、外国籍の方とご結婚され、お子様が男子なら未来の天皇ですが、ここで日本の皇統が途絶えます。全ては万が一という前提での推測ですが、可能性がゼロでないところに悩ましさがあります。

 一方で「国民主権」の憲法下だから国の主人は国民だと、学者や政治家が主張しますが、日本の歴史を知りますと果たしてそれだけで良いのだろうかと、疑問を覚えるのは私一人でしょうか。

 ご先祖さまが護られたてきた皇統はこれからも護持すべきでないのかと、考えの末はここにきます。本意とするところではありませんが、節度を弁えながら渡部氏のように皇統や皇室について今後も意見を述べようと思います。そうしなければ、左翼系の反日学者たちが扇動し、日本の伝統や歴史を崩壊させる心配があるからです。

 皇室の方々も日本の歴史を本気で学ばれ、ご自身でも皇統を守る大切さを身につけられるべきでないかと、そんな気がしてきました。

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『日本史の真髄』 - 50 ( 近衛将監(げん)・和気清麻呂 )

2023-01-16 12:13:34 | 徒然の記

 今回は、「頼山陽の漢詩」と「徳岡氏の大意」「渡部氏の解説」を紹介します。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 七行詩

   和気の清

   清を改めて穢(けがれ)と為すも清を損せず

   清気浩々として天地に塞がる

   赤日を護り得て天中明らかなり

   臣の舌は抜く可し

   臣の語は屈す可らず

   三寸の舌、万古の日

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   和気清麻呂は清廉

   名前の「清」を「穢」に改めさせられたところで、本質の清さは失われはせぬ 

   清気は天いっぱいにみなぎり

   真紅の太陽を見事に守って 天の秩序をはっきりさせている

   臣の舌は抜くことができましよう

   だが臣の言は枉(ま)げられませぬ ( と君は言った )

   三寸の舌、それが守ったのは万古の日の安泰なのだ

 〈「解 説」    ( 渡部氏 )  〉   

 渡部氏の解説も続けて紹介します。歴史に残るへつらい者の、中臣習宣阿曽麻呂の言葉を聞かれた称徳天皇ばどのようにされたのか。

 「女帝は元来、宇佐八幡を尊崇すること特別なものがあった。その神様が、自分が心中望んでいることを言ってくれたのである。しかしさすがに重大事であるため、女帝も慎重であった。それで、当時の近衛将監であった和気清麻呂を呼んでこう言われた。

 「昨夜、八幡大神が、お前の姉尼の法均(ほうきん)に憑依して言うことがあると、私に言われる夢を見た。お前は法均に代わって宇佐へ行き、信託を聞いてきてくれ。」

 法均は女帝に仕えていた清麻呂の姉ですが、出家して尼僧になっている元女官でした。この時道鏡は、清麻呂を脅迫し、かつ誘惑して言ったそうです。

 「八幡大神は、私を皇位に即かせたいといっておられるのだ。お前が宇佐へ行って神託を得て、私の希望を叶えてくれれば、お前を太政大臣にし国政を任せよう。そうしない場合には、重刑に処する。」

 「しかし清麻呂は、その脅しにも誘いにものらず、決死の覚悟で宇佐へ行き、神託を乞うた。神が憑依して言われたのはこうであった。」

 〈 わが国は開闢以来、君臣の分が定まっている。臣下が皇位につくことはないことである。皇位は必ず皇胤(いん)が 受ける。無道な人間はすみやかに取り除くべきである。 〉

 「清麻呂は帰ってきてこの通りを報告した。道鏡は大いに怒った。清麻呂は姉の法匀と共に、神の教えを曲げて朝廷を欺いたものだとされ、名前も別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えられて、九州は大隅へと流されたのである。姉の法均尼も還俗して、別部広虫売(わけべのひろむしめ)とされ備後に流された。そして、清麻呂の高祖父から四代の墓所の木も切られた。」

 報告した清麻呂は、立身出世をしたものと思っていましたので、この結末には驚きました。正しいことを行なっても、報われずに終わった人々がいることを教えられました。

 あと少しですが、大事な解説なので回を改めて紹介いたします。

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『日本史の真髄』 - 49 ( 孝謙天皇の重祚 )

2023-01-16 09:24:34 | 徒然の記

 天皇・皇后も人のお子ですから、皇位継承を誰にするかにつき、自分の愛する者にしたいとされるお気持が分からないではありません。しかしこのため長年のしきたりを無視されると人心が乱れ、無用の殺生が生ずることは、前例があるにもかかわらず繰り返されます。

 大化の改新、壬申の乱も、結局は皇位継承者を曖昧にしたり、無理を通したりしたために疑心暗鬼が生じました。聡明だった天智天皇然り、天武天皇然りでした。渡部氏は言及していませんが、天武天皇の曾孫である聖武天皇が、似たような間違いをされたと私は考えます。

 聖武天皇はご自分の娘・阿部内親王を、早くから女性として日本最初の皇太子にされました。さらに聖武天皇は仏道に専心するため、生きているうちに皇位を皇太子に譲られました。説明が省略されていますが、阿部内親王は独身のまま孝謙天皇として即位されています。

 「西暦756年に、出家されていた聖武天皇が亡くなられた。その時の遺言によって、天武天皇の末の皇子である新田部親王(にいたべしんのう)の子の、道祖王(ふなどおお)が皇太子になったが、翌年孝謙天皇は道祖王を廃した。」

 ここからは文章体をやめ、項目で説明します。

 ・孝謙天皇は、皇太子を天武天皇の孫である大炊王(おおいのおお)に代えた。

 ・大炊王は、『日本書紀』の編者である舎人親王の子である。

 ・翌年孝謙天皇は譲位し、大炊王が第四十七代淳仁(じゅんにん)天皇として即位した。

 ・淳仁天皇は藤原仲麻呂を重用し、恵美押勝(えみおしかつ)の名を与え、太政大臣にした。

 ・孝謙天皇は上皇として政治に関与し、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧を宮中に入れて、寵遇されていた。

 「権力が二つあれば、必ず争うことになる。」渡部氏はこのように言い、二人の争いの経過を語ります。

 ・孝謙天皇と淳仁天皇と恵美押勝の関係は、元来良好であったのである。近江の保良宮(ほらのみや)へ一緒に行幸され、歓を尽くした。

 ・しかし西暦762年頃から、上皇と天皇の間が険悪になっていった。その原因は道鏡という僧侶の登場である。

 ・上皇が病気になられた時、道鏡は上皇の看病禅師となり、病気の平癒を祈り寵愛を受けるようになったと言う。

 ・上皇は結婚したことのない女性で、二人の間には後世誇張され伝えられるようになった特別な関係もあったらしい。

 ・仲の良かった淳仁天皇が、道鏡を上げて上皇を批判したため、これに対して上皇が天皇とその支持者である恵美押勝を非難する詔勅を出した。

 ・喧嘩が公になり、その翌年恵美押勝は実力で反乱を起こしたが、彼は敗れて琵琶湖のほとりで殺された。

 ・彼の一族と従者も全て最後を遂げ、淳仁天皇は廃されて淡路へ流され、上皇が重祚して称徳天皇となり一件落着した。

 ここまで解説されても、まだ頼山陽の漢詩の前段です。六行の詩の一行にも触れていません。寧ろ話の山はこれからです。

 「武力で制覇した政権は強い。その寵愛を受けていた道鏡の勢力は、飛ぶ鳥を落とすほどだった。」

 ・恵美押勝が滅ぼされると道鏡は大臣禅師となり、上皇が重祚して称徳天皇になると、太政大臣禅師に任じられた。

 ・それでも足らぬかの如く、翌年には法皇の地位を与えられ、人臣の域をこえて皇族に準ずる待遇であった。

 ・道鏡は天皇に準ずるような振る舞いを始め、大臣以下の拝賀を受けたり、宮中で宴を催し群臣に物を与えたりしている。

 氏も不愉快になっているらしく、辛辣な解説になっています。

 「このようなことは、女帝と特別な関係がになければ考えられないことである。正史である『続日本紀』の記述は、後世のヨタ記事とは違って最も信頼できるものであるが、この中にも二人が特別の関係にあったことが十分示されている。道鏡は天皇の御住居に住んでいたと言うから、夫婦同様の生活をしていたと解するのが通例である。」

 「何しろ正史にこれだけ書かれているくらいだから、一般の書になると描写はさらに露骨になる。」

 こう言って氏は、奈良時代に書かれた『日本霊異記』、鎌倉時代の『古事談』・『水鏡』、室町時代の『下学集』などの一部を紹介します。しかし学者ですから、冷静な意見も述べます。

 「このような阿保な話をあげたのも、それがグロテスクにデフォルメ化された形で、女帝と道鏡、さらに皇位と仏教を示しているからである。」

 「女帝には結婚の体験がなかった。恵美押勝を滅ぼしたり、皇太子道祖王を滅ぼしたり、淳仁天皇を流したりした時の称徳帝は、強く、明敏な女性であったように思われる。」

 「道鏡も、これという氏素性もなく宮廷に出入りするようになったと言うのだから、抜群の修行僧だったに違いない。四十才になり、もし立派な男性を初めて知ったとしたら、女帝の考えもおかしくなってくるのではないか。子供のない女帝は、道鏡を後継者に選びたいと気になっていたようである。」

 「そうすると、その気配を察して胡麻をする人間が出てくる。」

 西暦769年5月に、筑紫太宰の主神(かんつかさ)である中臣習宣阿曽麻呂(なかとみのすけのあそまろ)が、こう言上してきた。

 「八幡の神様が現れて教えて申されますには、道鏡を皇位に就かせましたならば、天下は太平であろう。」

 これで中臣習宣阿曽麻呂は歴史上の大馬鹿者として名前を残し、子孫には気の毒な話です。頼山陽の漢詩にはまだつながっていませんが、スペースが足りなくなりましたので、次回といたします。

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