「革命は、国民大衆との結合なしにはあり得ない。」「わが国では、軍隊を使っての武力クーデターは成功しない。」
三月時件、十月事件のクーデータ計画を失敗した橋本中佐の反省として、侯が語った言葉です。レーニンにしてもスターリンにしても、あるいは毛沢東も、革命を成功させるには、国民大衆を味方に入れるため力を尽くしました。ボルシェビキは貧しい者の味方だ、人民解放軍は弱い農民の味方だと、国民大衆の心を奪いました。
同時にあらゆる武力を使い、彼らは暴力で革命を成功させました。だから私は、橋本中佐の意見の半分に同意し、半分に異論があります。国民大衆との結合と同時に、武力は不可欠なので、正しく言うと次のようになります。
「国民大衆と結合した武力行使が、革命を成功させる。」
だが私の気持ちを複雑にさせるのは、言葉の定義ではありません。2・25事件は、国民と結合したクーデターだったと、私が考えているからです。 高橋正衛氏の説明を借りると、理解できます。三月事件から5・15事件まで主体となったのは、桜会で、陸大出身のエリート軍人が中心でした。
しかし2・25事件の主体となったのは、下級将校です。彼らの多くは、大学へ行ける裕福な家庭に育った桜会の軍人と違い、貧しい農村や漁村の出身者でした。世界恐慌の影響を受け、日本経済が破綻し、その影響をまともに受けたのが農村と漁村です。生活のため、それだけのために、娘を売る親が現れ、売られた娘たちは酌婦となり、売春婦となり身を持ち崩して行きました。
犯罪者が増え、刑務所が溢れるだけでなく、貧しい娘たちの不幸も溢れ、新聞が書き立てていました。娘たちを金で買い、弄ぶのは、戦争成金と、財閥と、彼らと結びついた政治家でした。つまり2・25事件で決起した下級将校たちは、橋本中佐の言う「国民大衆」だったのです。
たまたま彼らが武器を持つ軍人だっだけで、彼ら自身は「国民大衆」でした。彼らは可愛い妹や、愛する姉や、大切な姪たちが売られていくのを、怒りと涙で我慢していた「国民大衆」でした。
この事情につきましては、高橋正衛氏だけでなく、2・26事件の当事者だった末松平太氏の著書などからも、知ることができます。
権門、上(かみ)におごれども、國を憂うる誠なく、
財閥、富を誇れども、社稷(しゃしょく)を思ふ心なし
昭和維新の歌を歌いながら、彼らは心を一つにしたと言われていますが、時流に乗り、歌で高揚したと言う軽薄なものでなく、歌は心の叫びだったかと、私には思えます。彼らは、荒木貞夫、真崎甚三郎という野心家の将軍に利用され、梯子を外され、陛下から逆賊と言われてしまいました。
5・15事件で犬養総理を射殺した、桜会の将校たちとの処遇の差は、大川氏や侯のような人々の理解不足と、受け止め方の違いから生じているのでないかと、推察しています。
彼らは天皇親政を求め、政争を繰り返す政党に敵対心を燃やし、天皇と外界を遮断する元老や重臣を、「君側の奸」として憎みました。この思想を植えつけたのは、北一輝氏だけでなく、大川氏も橋本中佐も仲間だったのではないでしょうか。政府要人を殺害した罪は厳しく問うとしても、彼らもまた、歴史の波に流された「国民大衆」の一人であり、犠牲者でもあったと、言ってやることはできないのでしょうか。
それができないのは、殿様だった侯の限界か、あるいは侯の言う下層に生まれ育った私の、独りよがりな思い込みなのか。自分では分かりません。その判断は、私がいなくなった後で、ブログを読むであろう息子たちに任せたいと思います。
ここで断っておかなければならないのは、私が色々批判するので、息子たちが侯を誤解してはならないと言うことです。引用しているのは、侯の意見の一部であり、侯自身は世間の物差しで測れない、不思議な人物であると思います。
このようにちゃんと説明しておけば、次回からも、遠慮なく意見が述べられます。明日は「国家社会主義」に関する、大川氏と北氏の相違について、息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々に、ご報告しようと思います。侯は大川氏の思想を賞賛しますが、私は北氏の考えの方が優れているのではないかと、密かに考えています。