当時は三月事件だけでなく、十月事件、5・15事件、2・26事件と、立て続けにありますので、昭和初期の世情について、息子たちのため、少し整理してみようと思います。侯の著作を離れ、ネットで時系列に調べてみました。
〈 三月事件 〉
・昭和6年3月 陸軍の中堅幹部により計画されたクーデター未遂事件
・桜会が中心となり、大川周明・北一輝の一派と共に呼応する
・宇垣一成大将による「宇垣内閣」を目指す
〈 十月事件 〉
・昭和6年10月 陸軍の中堅幹部により計画されたクーデター未遂事件
・桜会が中心となり、大川周明・北一輝の一派と共に呼応する
・満洲事変没発後、政府が決定した不拡大方針を不服として計画
〈 5・15事件 〉
・昭和7年5月15日 海軍青年将校による反乱事件
・内閣総理大臣犬養毅を殺害
・政党政治の終焉 元海軍大将斎藤実が首相となる
〈 2・26事件 〉
・昭和11年2月26日 陸軍青年将校によるクーデター未遂事件
・犠牲者・・ 高橋是清(大蔵大臣)、斎藤実(内大臣)、渡辺錠太郎(教育総監)、松尾伝蔵(総理大臣私設秘書官)
・岡田内閣が総辞職し、広田内閣が成立
・真崎甚三郎大将による「真崎内閣」を目指す
4年前に私は、 高橋正衛氏著『2・26事件』を読んでいますので、内容の一部を紹介すると、さらに理解が深まる気がします。
「三月事件までは、皇道派と統制派は明確になっておらず、両派の軍人が混在していた。橋本中佐を中心とする「桜会」にしても、メンバーの多くは後の統制派である。」
「桜会には、参謀本部や陸軍省の陸大出の、エリート将校が集まり、」「影佐禎昭、和知鷹二、長勇、今井武夫、永井八津次などの」「支那通と呼ばれる佐官、尉官が多かった。」「2・26事件で決起した皇道派の将校と桜会は、ほとんど別の集団だ。」「皇道派には、陸軍大学校(陸大)出身者がほとんどいない。」
これを要約しますと 、以下のようになります。
・2・26事件が、軍部内の皇道派と統制派の戦いの最終になった。
・2・26事件で決起した将校たちは、陛下により逆賊と言われたため、荒木・真崎両大将が情勢不利と見て、彼らを見捨てた。
この時私は、書評として次のように書きました。
「特攻隊を創設した大西中将は、若い兵士を死なせた責任を取り、敗戦後自決しましたが、」「真崎大将と荒木大将は、反乱軍将校の扇動者でありながら、武人らしい責任を取りませんでした。」
5・15事件では、政党政治の腐敗に対する反感から、決起した将校への助命嘆願運動が広く湧き起こり、彼らへの判決は軽いものとなりました。しかし2・26事件では、陛下の「逆賊」発言もあったせいか、厳しい判決となりました。どれほど大きな違いだったか。二つの事件を比較してみますと、よく理解できます。
〈 5・15事件 〉 昭和 7年
・ 海軍の将校を中心に、民間人も含め、26名が参加。
・犬養首相を射殺した将校を含め、全員10年から16年の禁固刑で終わっている。
〈 2・26事件 〉 昭和11年
・陸軍の将校を中心に、兵士、民間人を含め、1,483名が参加。
・死刑16名、 自決2名、1年から6年の禁固刑17名、兵士は無罪
大川周明氏と北一輝氏は、同じ「国家社会主義者」でも、相手にしている軍人層が異なっていました。東大を出た大川氏が、陸大出身のエリート軍人を相手に活動し、独学で勉強した北一輝氏は、将校以下を中心として活動していたことが、侯の叙述の中で時折見られました。侯の自伝では、関わっていたクーデータの中に、2・26事件が含まれていないので、不思議に思っていましたが、こんなところに答えがありました。
今回は大きく横道へそれましたので、次回はまた、侯の著書に戻ります。