「日中戦争の発端となった、盧溝橋での第一発は、」「日本陸軍の陰謀によるものである、と言う説がある。」「満州事変の発火点となった、柳条溝の満鉄爆破が、」「関東軍によって企てられた、謀略工作であったため、」「これも同じであろうと考えるわけだが、当時の日本軍の部隊配置や、」「演習部隊の行動から判断しても、そうでないと断言できそうである。」
62ページの叙述を転記していますが、今井氏の意見には、傾聴せずにおれないものがあります。
「陰謀が企てられていたとしたら、それはむしろ中国側であるという、」「断片的な情報もあるが、これもはっきりした確証がない。」
「ただその頃、日本軍が襲撃してくると言う流言が囁かれていたらしいので、」「これに怯え、或いは闘志を燃やし、上の意向に反し、」「最初の一発を打ったと言うことも、考えられる。」「いずれにしても、今後新事実が発見されるまで、」「謎としておくのが本当かもしれない。」
この一発の銃声をきっかけに、日本軍は戦争への道をひた走ったと、私は教わりました。しかし氏の著書を読むと、事実は少し違っているようです。その後の動きを、箇条書きにしてみます。
・事件後、支那駐屯軍の特務機関長・松井太郎大佐は、補佐官の寺平大尉と軍事顧問櫻井少佐を、現地に派遣した。
・中国軍の金振中大隊長を口説き、事件の拡大を阻止するよう努力した。
・しかし、冀祭(きさつ)政権の首脳者は、いずれも姿をくらましてしまい、交渉は困難であった。
・トップの宋哲元は、日本との交渉をうるさがって郷里に引きこもり、市長の秦徳純が代理をしていたが、その秦もなかなか見つからなかった。
・二日後の夕刻、北平(北京)大使館付き武官が、秦の居所をやっと見つけた。こうしてその夜、日中両軍の協議が成立し、それぞれが停戦命令を出した。
・しかしこの命令が、現地の支那軍に徹底せず、協定に基づき撤退中の日本軍に、攻撃を仕掛けてきた。
・このため日本軍も撤退を中止し、小規模な戦闘が繰り返された。
説明してありませんが、上記「北平(北京)大使館付き武官」と言うのは、どうやら著者のことです。紹介されていた氏の略歴を確かめますと、それが分かります。別のところでは、「今井武夫少佐」と実名で書かれていますので、経験談が述べられていることになります。
盧溝橋事件を好機として、日本軍が日中戦争へ突き進んだわけでなく、何度も日中双方の当事者が、戦禍の拡大を阻止しようと努力しています。
昭和6年に柳条溝で鉄道を爆破して張作霖を爆殺し、その翌年に関東軍が満州国を作りました。「五族共和の楽土」を作ると言いながら、実際は関東軍が支配しました。漢族、満州族、朝鮮族、蒙古族と共和するのでなく、愛新覚羅浩様が語られているように、「関東軍以外は人にあらず」と言う傲慢さがありました。
店で飲食しても、代金を払わないような軍人がいれば、人心は離れていきます。おそらく満州国では、時が経つにつれ、住民たちの不満と怒りが溜まり、日本軍や日本人に対する憎しみが大きくなっていったのではないかと、考えられます。宏(ひろ)様の説明では、満州国の人々は上から下まで、日本の軍人への不信感と怒りを抱き、それは同じ民族である中国全土に広まっていったとありました。
場所が離れているとはいえ、同じ中国国内ですから、満州国が作られた5年後に発生した盧溝橋事件( 昭和12年 )の時、反日、抗日の思いが溢れていたのは事実でしょう。日本にしてみれば、欧米列強の侵略から自国を守るための自衛戦争ですが、戦場になっている中国人にとっては、欧米列強も日本もみんな憎い侵略者です。
圧倒的な武力を持つ相手なので、多くの中国人は我慢していますが、一触即発の機運が満ちているため、指導者たちが協定を結んでも庶民が破ってしまいます。中国の軍人には日本と戦う正義があり、日本の軍人にも祖国防衛という正義があります。そこを理解した上での叙述であるため、氏が一方的な中国批判をしていないのではないかと、そんな気がします。
「日中両軍の衝突事件は、それまでに何度も起こっているので、」「盧溝橋事件に対しても、陸軍の中央部はそれほど重視しておらず、」「すぐに解決するものと思っていた。」「そのために事件の拡大防止と、現地解決方針を決定し、シナ駐屯軍に訓令した。」
しかしその後事件が好転せず、長引くため、この解決をめぐって陸軍中央部で、「拡大派」と「不拡大派」が激論を交わすことになります。主要な論点を整理してみました。
「 不拡大派 」・・現地シナ駐屯軍の主張
・満州北辺の対ソ戦に備え、整備増強しなければならない重大な時に、中国へ出兵したことは、全面戦争の泥沼に足を踏み入れる危険性がある。
・国防上、極めて危険である。
「 拡大派 」・・関東軍と朝鮮軍の主張
・今まで国策にしていながら、実現できなかった対中政策を、一挙に解決すべきである。この機会に中国に一撃を加えるべき。
・その期間は短くて済むから、対ソ国防について心配する必要はない。
「太平洋戦争開戦図」という地図が、巻末についています。それをみますと、当時の日本軍の配置が分かりますので、参考のため転記します。
1. 満州国 ・・関東軍 13師団
2. 朝鮮 ・・朝鮮軍 2師団
3. 支那 ・・支那派遣軍 21師団 ( 北京、徐州、南京を含む、日本の支配地域 )
この地図によりますと、蒋介石の支配する「中華民国」は、日本の支配地域を除くものとして描かれています。今の私の目から見ますと、途方もない広さの地域に、よくもここまで軍の配備を広げたものと、驚くしかありません。
師団についても、概略を調べました。
・師団は、旅団・団より大きく、軍団・軍より小さい。
・地域的、期間的に独立し、作戦遂行能力を持つ最小の戦略単位。
・歩兵、砲兵、工兵等の戦闘部隊と兵站等の後方支援部隊を有する、6千人から2万人程度の兵員規模の作戦基本部隊。
次回は、日中双方の意に反し、拡大していく日中戦争です。