畑沢の実家に直径が約20cmのガラス製の灰皿があります。今まで、中を覗いたことがなかったのですが、よく見ると字が書いてありました。「一般電話開通記念 昭和55年10が31日 尾花沢地集電話連絡協議会」とあります。
そこであれこれと電話に関する昔のことを思い出してみました。私が物心がついたばかりの時は、畑沢には一切、電話機がなかったようなようです。その後、商店をやられているお宅に村のたった一つの電話が入りました。その頃の電話は、箱型の真ん中にマイク、左に受スピーカーに相当するもの、右側にぐるぐると回すハンドルがありました。
村で一つしかありませんので、外から電話がかかってくると大変です。商店の御家族がどんなに遠くても電話の相手方へ連絡をしなければなりません。これが、真冬ですととんでもないほどの御苦労をおかけしていました。当時の冬道は、一人がやっと歩ける一本道です。自転車も使えません。何キロもの道を歩いて知らせてくれました。本当に申し訳ない気持ちでした。
それから、昭和40年代の中ごろでしょうか、一軒一軒に電話が入るようになりました。それが「ノウシュウデンワ」という発音でした。どのような漢字になるかは分かりません。
上の写真は、「ノウシュウ」ではなくて、「地集」です。私の頭は直ぐに混乱しましたので、調べてみました。「地集電話」とは、「地域集団自動電話」だそうです。「ノウシュウデンワ」は、漢字にすると「農集電話」となり、正しくは「農村集団自動電話」だそうです。ということは、畑沢では、次のように電話の種類が変移したものと思われます。
農村集団自動電話 → 地域集団自動電話 → 一般電話
地域集団自動電話から一般電話に変わった記念がこの灰皿だったようです。昭和55年ですから、当時、私も若かったはずです。ついでに未熟者でした。