前回は楯跡の全体的な紹介でしたが、今回からは楯跡の主要部を説明していきます。
「背中炙り峠の楯」跡の主要部縄張り図
南北方向の尾根上に曲輪B、D、F、Gが並んでいて、曲輪Fが楯の中心となる主郭(本丸に相当します。)で、最も高い位置にあります。主郭は曲輪Dよりも5、6mぐらい高くなっていますが、曲輪Gの北側との高低差はわずかです。
主郭の中にさらに土を7、8m位に盛って高くした櫓台(やぐらだい)があります。
この櫓台に木柱などで造られた櫓が建っていたことになります。櫓は見張りなどを行うものなので、試しに周囲の大木に登ってみましたが、野辺沢城のがあったお城山は見えませんでした。果たして櫓が建っていても、野辺沢城が見えるまでの高さであったかは難しい問題ですが、少なくとも楯の周辺は監視できたでしょう。
主郭は全体的に見ると、ほぼ平坦になっていて、中央部分に幾分の段差が見られます。東側と南側の周囲には土塁が巡らされています。南縁には、土塁の上の方に登る道が作られていることから、④と⑤の間に曲輪Gに渡る何らかの橋があったと考えられます。現在、主郭と曲輪Gの間にある堀切には土橋がありますが、専門家たちによると、楯が用済みとなってから村人が作ったものであろうとのことでした。堀切の役割から考えて、最初から土橋があったのでは堀切の役割を果たせません。もっともなことですが、それでは現在の土橋を造るための土をどこから持ってきたのでしょう。常識的に考えると、土橋を造るのは楯が必要なくなったのですから、近くの場所から楯の一部を削って堀切に運ぶと考えます。しかし、土橋がある堀切の近くのどこを見ても、削られたと思われる個所が見当たりません。そのことはこの堀切だけでなく、南へ続く三つの堀切についても言えることです。
櫓台の東側に曲輪が伸びて、その角が三角形になっています。専門家によると、そこには建物が建っていた跡があるとのことでしたが、同じ場所にいても私には認識することができませんでした。この三角形の東側の先には尾根が伸びていますが、曲輪の境界で鋭い急斜面に削られて敵の侵入を防いでいます。
曲輪Dの北側半分は、①を最高点とする自然な緩やかな山なりの地形のままになっていますので、中々、曲輪と断定するのが困難でした。しかし、西側の周囲は総て帯曲輪によって囲まれており、西側の周囲も一部を残してほとんどが平坦に削られていますので、曲輪と断定しても問題ないようです。むしろ自然な地形を上手く利用して、北側の高い所①に北方向を見張る見張り台などを造るのに有効に使えるようです。主郭へ虎口が②にあります。
曲輪Bは「背中炙り峠」と言われている所で、単一の平坦地ではなく、小さく区分された段差があります。それぞれの区画には、地蔵堂、湯殿山、山神が建てられていますので、これらを建てる時に地形が改変された可能性があります。下の写真の右端が湯殿山、その左の建物は地蔵堂です。
曲輪Bから曲輪D、F、Gの西端を縁取っている帯曲輪が南へ伸びています。途中の二か所で帯曲輪が途切れているのは、急斜面のために長い年月の間に崩れたり、杉の植林時に重機で崩されたものかと思われます。
曲輪Gの北側は、平坦な地形が二段に造成されています。北東の隅の段は曲輪Fとほぼ同じ高さになつており、二つの曲輪間を渡る橋のようなものがあったのではないかと考えられます。曲輪Gの南側は極端に曲輪らしさがなく、自然な地形そのままに見えます。楯が作られる以前はこの位置に古道があつたと思われる場所ですが、古道の跡は見えません。それを考えると、一見、自然な地形そのままに見えながらも人の手によって改変されていることは間違いなさそうです。保角里志氏の縄張り図では、楯に関する地形を見出しています。この曲輪は尾根上を南東に伸びて、堀切Fで終了しています。
ここまでは尾根上の曲輪でした。今度は尾根の西側に造られた曲輪を説明します。先ず曲輪Aです。地蔵堂のある曲輪Bと古道の直ぐ西側が3m近く下がっている所にあります。峠の直ぐ近くにありながら、分かりにくい存在です。下の写真は、この曲輪Aから地蔵堂の方向を写したもので、中央の崖一面にクスノキ科のアブラチャンという潅木が密生しています。
この潅木は、積雪の圧力で簡単に地面に這いつくばっていますが、雪が融けて暫くすると一斉に地面から起きだして葉が茂り、峠からの視界を遮ってしまい、曲輪Aは全く見えなくなってしまいます。曲輪Aは完全な平坦地でなく、西側に傾斜しています。中ほどで南北に分かれています。曲輪Bと連絡する道(虎口)を探しましたが、見つかりませんでしたので、曲輪Aへの通路は、曲輪Cとの間にあったのではないかと思います。
曲輪Cも古道よりも低い位置にあります。大変、大きな曲輪で南北60mぐらいになります。下の写真の雪が残っている場所が曲輪の平坦部で、左側の崖の上に古道があります。
古道との高低差が大きく6m以上にあります。西側は高低差100mほどの急斜面の崖となっています。曲輪Aと異なり、全体的によく平坦に整地されています。現在は古道がそのままこの曲輪の東側と接する形になっていますが、元々の古道の跡はこの曲輪と接せずに東側に離れています。楯の機能が終わった時点か、又は杉の植林を進めた際に重機で古道と曲輪が接続されてしまったものと思われます。元々は古道と曲輪が離れていたとしても、古道と曲輪を繫ぐ道があったはずです。今後、これもどなたかによって調べてほしい課題です。
曲輪Eは背中炙り峠から楯岡方面へ下る二つの古道の間にあります。平坦になっておらず、西側が低くなっています。そのために曲輪らしからぬ地形ですが、北と東端がはっきりと削られて造成されています。下の古道とはかなりの高低差がありますので、下の古道との接続はありません。上部の古道とは南端で高低差がなくなっていますので、ここが古道と曲輪の接続箇所と思われます。
曲輪Hは曲輪らしさに欠けていて、西側が低い緩やかな斜面になっています。また曲輪とそうでないところの境界が分かりにくくなっています。しかし南側ははっきりと人の手で削られて整地され、外側が急斜面となっています。西側には低いながらも人工的な段差が見えます。この場所にも楯が作られる以前は、楯岡方面から登ってくる街道が尾根に登る大事なルートがあったはずで、少なくともその道を掻き消す土木工事が行われたものと思われます。
ところで、古道に沿っている曲輪A、C、Eは尾根上の曲輪とはかなり趣が異なります。尾根上の曲輪は、堀切などで幾重にも守られていますが、曲輪A、C、Eはそのような施設がありません。防御と言うよりも、野辺沢領から楯岡や山形方面へ進軍する時のための駐屯基地的な役割ではなかったかと思います。高い所にありながらも湧水が豊富ですので、多数の兵が駐屯しても困りません。南へ進軍する軍道も楯の中にあります。進軍するための駐屯には最適です。逆に防御には全く用をなさない曲輪に見えます。
次回は「背中炙り峠の楯」跡の主要部Ⅱ(堀切)です。