このテーマは既に何度か投稿しましたが、年末から続く一連のお話として再度、取り上げます。また、背中炙り峠の楯のテーマは、前回で最終とも宣言しましたが、これも簡単に撤回することになります。いい加減な私の性格は、新年になっても治らないようです。それが私らしさとも言えるのでしょうか。とかなんとか、下らないことばかり書いていますと、益々、信用がなくなりますので、本題に移ります。
説明のために、位置図を掲載します。
楯跡の東側(畑沢側)の沢には、「小三郎」「平三朗」「一の切」「二の切」「三の切」などの楯に由来すると思われる地名の伝説があります。畑沢の古瀬K氏によると、「一の切、二の切、三の切の奥にはホッキリがあると言われている」ということでした。ホッキリとは、堀切(ほりきり)のことに間違いありません。堀切などという言葉は日常生活で使われないなり専門的な言葉です。地域の御先祖が四百年も前に深楯に関係していたであろうことが推察されます。
小三郎の名前は、最上町堺田にある「封人の家」の先祖である有路小三郎と一致します。境田の小三郎については、元々、野辺沢家の家老の家から出たとの伝説があるようです。有路小三郎と楯跡の時代も一致しています。楯跡の小三郎は有路小三郎に因んだものである可能性が高いと思われます。有路家については謎が多いので、別のところで考察しています。
小三郎と平三朗は小さな沢の名前ですが、どちらも正式な沢の小字名になっていません。しかし、平三朗の近くにある千鳥川の川筋に、平三朗の小字名があります。その場所は、私が「防御施設として溜池があったであろう」と推測している場所と一致しています。平三朗は溜池を使った防御防設の責任者で、その拠点を平三朗の沢に置かれたのではないかと考えてみました。残念ながらそれを証明する手がかりはありません。
楯跡から少し離れた宝沢には、また、古瀬K氏によると、宝沢の奥の簡易水道水源地の近くの平場が、「又五郎」という地名が付けられているそうです。「又五郎」とは、野辺沢能登守の息子の幼名でした。これも時代が完全に一致します。