-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「背中炙り峠の楯」跡の主要部Ⅱ(堀切)

2018-01-03 10:21:21 | 歴史

 前回からのシリーズを続けます。楯跡を見た時に最もインパクトを与えるのは、人を拒絶する堀切の姿です。背中炙り峠の楯跡でもそのことが言えます。今回はその堀切を解説します。縄張り図は前回に既にお見せしましたが、お正月ですから今回も大サービスをいたします。冗談です。縄張り図がないと私の下手な説明では、何とも分かりにくいからです。

                  「背中炙り峠の楯」跡の主要部縄張り図

 堀切Aはこの楯跡調査において、最後に確認できた堀切です。野辺沢領から見れば東側は敵方ではないので、まさかこちらに防御施設があるなどと思わなかったからです。しかし、城跡調査の専門家の方々に同行していただいた時に、細心の注意を払った木目細かい調査態度によって発見することができました。この堀切がある尾根は東に次第に高度を下げており、その途中に突然、堀切が現れます。元々、傾斜している尾根を遮断していますので、落差が大きく感じられます。この堀切の周囲は大きく成長した樹々に覆われているために、全景が分かる撮影は困難になっています。そこで下に模式図を掲載しました。図の右が東です。既に御覧になっていると思います。この堀切には土橋がありません。これが堀切本来の姿のようです。

 

 堀切B自体の深さはたいしたものではありません。曲輪D、F間の落差が大きいので堀を深くする必要がなかったのでしょう。曲輪Dから主郭へ登る頻度が高かったようで、堀切の西側寄りにはっきりとした下の写真の土橋があります。堀切の東側は恐ろしく急な崖になっていて、一歩でも誤れば二の切の谷底に80mも落下し無事ではいられません。逆に西側は曲輪を縁取っている帯曲輪と連続しているだけです。

 

 堀切Cは高低差が少ない曲輪の間を遮っていますので、かなり深く掘りこまれています。堀切の東西の状態は堀切Bと同じです。現在、堀切の東端に土橋がありますが、当時には存在していなかったはずだそうです。ただし丸太橋のようなものがあって、敵が来襲した時には撤去できるようになっていたことでしょう。

 

 堀切Dは竪掘(たてぼり)の変形のような形をしており、果たして堀切とすべきか切岸とすべきかを迷いました。また、切岸の一部が地滑りを起こして、滑った土の塊が土塁に見えているだけなのかとも疑ってみたりしました。竪掘りは斜面に対して真っすぐに下に向かって掘られていますが、堀切Dは斜め方向に下がっています。空堀は北側が極めて浅く、南側は途中から堀の土塁部分がありません。これでは西側から侵入した敵は容易に空堀の中に南からに入って北の方に登り、容易に空堀の端から上に登れてしまいます。戦国時代の姿は現在と異なり、堀切としての機能を完全に備えた姿をしていたのでしょうが、戦がなくなって村人が山仕事をする時には、尾根を遮断する堀切はとんでもない邪魔物です。この堀切はかなり改変されたことが予想されます。

 

 堀切EとFは、楯の主要部から南東方向へ少し離れた細い尾根を狭い間隔で二重に遮断しています。下の写真は堀切Eで、東側から見上げて撮りました。

 堀切Eの幅は5mもありますが、Fは細くて堀切としては物足りなさがあります。EとFの間は8mで、そこに明らかに人の手による曲輪状の平坦な部分⑦があり、巾は最大で4mです。例えばここに西側方向を見張る小屋などを設置したものかとも考えてみましたが、全く見当がつきません。


 ここまで縄張り図に示した堀切を説明してきましたが、縄張り図に表わせなかった堀切があります。姥地蔵堂と大日堂(万年堂)の北側に、かなり規模の大きい堀切があったであろうと思われる地形があります。大日堂の辺りで尾根は細くなっており、そこに二つの堀切があったようです。下の写真は北側から南の方向を撮ったものです。

 写真中央から少し上に大日堂がかすかに見えます。右側で上に伸びている雪は古道上に残っているものです。古道は完全に尾根上ではなくて、西側にずれた形になっています。楯があったころは街道がこの位置にあったはずがなく、楯の役目を終えてから堀切周辺が大規模に改変されて、その後の街道になったものと思われます。ただ、楯が機能していた時代も街道としての機能も必要なので、堀切を渡る木橋が設置されていたでしょう。この堀切跡の直ぐ北側の尾根には、かすかながら自然な山なりとは違う微妙な地形が見えます。楯があった時代の街道かと思います。

 

コメント
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