タイトルを御覧になって、不審に思われた方もおられるでしょう。まして私を御存知ならばなおさらです。そもそも、由緒ある神社を訪ねるなどは、私の柄に合いません。そうなんです。私は元々、別の目的でここにやってきました。楯跡がないかと探しに行ったのです。畑沢に楯跡が4箇所見つかり、そのうち2箇所は延沢軍記にぴったり合致して、藤木久志氏の著書「雑兵たちの戦場」で言うところの「村の城」に相当するものと思われます。しかし、常盤地区では畑沢の外には鶴子にそれらしいものがありますが、その他の地区には見つかっていません。私の推論では、「野辺沢城から遠い位置にある細野、古殿そして荒町の住民は城に逃げ込むことは困難で、独自の避難所である「村の城」を持っていたであろう」となります。そこで、畑沢に一番近い荒町を調べてみようとと思い、位置的に可能性が高い八幡神社が建っている山に登りました。
荒町と言えば、畑沢から常盤小学校への通学路の途中にあります。あれほどまでに、あっちの山こっちの川と道草をしていたのに、神社仏閣へは一度も行ったことがありません。中でも八幡神社は県道から直ぐの所です。理系人間には縁がなかったようです。
さて、切岸や堀切などの楯跡に関わるものは見つかりませんでした。しかし、八幡神社の素晴らしさに初めて気づきましたので、紹介します。この神社は旧野辺沢領内では最も由緒があるので、様々な説明書があります。しかし、あえてその説明を無視して、畑沢の大先輩である徳専寺住職だった青井法善氏の著書「郷土史之研究」から抜き出して説明します。次の縦書きは、その著書から短く抜粋したものです。旧漢字、旧仮名、変体仮名が使われています。
未熟者ですが、一応、上記の文章を説明します。
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八幡神社
八幡神社は(大字延沢)字荒町にあって、応神天皇を祀っています。(応神天皇とは、第15代天皇と言われており、西暦200年代ごろの人らしいのですが、詳しいことは分かりません。武勇の神として崇められています。)この神社は天喜五年(今から870年前、2019年からは962年前)に熊野修験の髙龍が諸国を修行しながら野辺沢に来て創立したと言われています。中世になって元亀三年(355年前、2019年からは447年前)の正親町帝(正親町天皇のこと)の時代に、山形城主の最上義光の家臣である野辺沢能登守満延が、武運長久のために山城の国の京都で桧の柾目材で祠を作って領地内に運び、相模の国の鎌倉八幡の分霊を勧請してもらい、(八幡神社へ野辺沢家の)祈願所として30石の給金を与えて野辺沢家の総鎮守としました。いろんな物品を神社に献上したものが今も宝物として残っていののが多くあります。(最上)義光の時代に、山形八幡宮へ八月十五に御礼参りするにあたっては、この神社でも八月十三日にお参りをしてたので、今でも八月十三日に祭の音楽をしていますが、太陽暦を用いるようになってから祭の日は九月十三日としました。明治六年には村社の格式を与えられました。明治八年二十日に村社とした方が良いかもしれない(意味が不明です。)。
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大きな鳥居がでーんと、神社への入り口に立ちはだかっています。
鳥居を潜ると、もう奥には社殿へ登る石段が延々と続いています。この石段、果たして何段あるでしょう。 鳥居へ登る7段も加えて、149段ありました。中途半端な数ですので、もしかしたら150段かもしれません。なにせ私は一回で正確に数えたことがありません。是非、皆さんが確認してください。石段の脇に立っている杉は、一本を除けばまだ細いものです。樹齢は50年に満たないと感じました。恐らく、神社を建て直すときに伐採された後に再び植林されたものでしょう。
一本だけ太い杉が立っています。注連縄(しめなわ)が飾られていますので、神木として扱われているようです。樹齢は百年を超えているでしょうか。
人の形をした四体の像が箱のようなものを担いでいます。何をするための物かはとうとう分かりませんでした。
この箱状の物体の脇には「明治十有七申年 九月吉日」 とあります。この年は「庚申の年」に当たります。と言う事は、庚申講に関係したものと言えます。庚申講は、仏教でも神道でもありません。明治になって神仏分離されても、庚申講は対象外だったようです。
階段を少し登ってから、振り返って下を見ると、登り口の広場が見えました。全面が綺麗な芝生に覆われています。雑草も生えていません。余程、上手で念入りな手入れがされているようです。
杉木立の中には、各種の石仏があります。湯殿山と白山(大觀現)です。
こちらは、右に山神社、左に天満宮で、江戸時代の天保年間に建てられました。真ん中の石祠は分かりませんでした。このころ荒町も激動の時代で、畑沢出身のある人物が活躍しました。
石段を登り切ると、社殿が現れました。実に立派に手入れがされています。羨ましい限りです。
神社名が入った額です。揮毫した者の名前らしき「陸鎮□」が入っています。篆刻まで刻んであります。
狛犬(こまいぬ)でしょうか、象らしきものも神社を守っています。
神社の西側奥にはブナ林が広がっています。心配なことがあります。楢枯れの時にブナの枝がダメージを受けたような感じがあります。ブナも楢も栗もブナ科です。