畑沢では昭和5年に青井法善氏が「郷土史之研究」、昭和33年には有路慶次郎氏が「畑沢之記録」を著して下さいました。現在、たった25戸の小さな集落で二冊もの書が残されているのは、外に聞いたことがありません。畑沢出身者は畑沢に愛着が強いことを意味しているような気がします。お陰で昔のことを知ることができます。
さて、畑沢之記録に畑沢の南の沢から西に隣接する上五十沢へ越える峠の名前が出ていました。「比丘尼峠(びくにとうげ)」だそうです。私たちは昔、何度も通った道でしたが、この名前を聞いたことがありませんでした。そもそも、背炙り峠以外は全く名前を知りません。しかし、この峠の名前は、五十沢地区でも使われていますので、有路慶次郎氏の創作ではありません。ちゃんとした正式の名前です。それでも時代が変化して、今では全く使われていませんので、道の跡さえも消えてしまいました。代わりに平成18年に造られた車道が近くを通っています。そこで、私が勝手に比丘尼峠に「新」を加えて「比丘尼新峠」と名付けました。道のルートは全く違います。
この比丘尼新峠への道は、まだ深い雪の中です。雪の中だからこそ面白いのが、山スキーでの散策です。今年は2回目の山スキーです。前回は屏沢の奥から北側の斜面を登って東の沢へ下りました。令和3年3月24日、今回もジルブレッタの厄介になり、車道の入り口から開始です。午後2時半です。
50mほど進むと杉の大木が倒れて道が塞がれていました。直径が40cmぐらいで、完全に真ん中から綺麗に縦に割れています。珍しい割れ方です。
どこから倒れて来たかと上の方を見たのですが、稲荷神社が立っているだけで何も教えてくれません。
一応、まさかと思ったのですが、下を覗いて驚きました。割れ残った杉がニョッキと立っています。杉に雪が附着して重さに耐えきれずに割れたのでしょうが、珍しい割れ方です。
倒木を後にすると、順調な登りです。天気はいいし、道は緩やかに曲がりながら、適度な傾斜で登っています。「幸せだなあ」と感じてしまいました。この程度で幸せな気持ちになるのですから、実に「安い男」です。苦労もなく登り切れば、今度はスキーで滑れます。楽しみです。
人生、時々振り返って見る必要があります。たどたどしいながらも、しっかりと踏み込めた跡があります。
登り始めてから約1時間、かなり道草しましたので、やっと峠に着きました。西の遥か彼方に葉山の稜線が光っていました。肉眼では、はっきり見えたのですが、写真では少し霞んでいます。春ですね。
峠の道から森に入ると、白い幹が見えました。樹皮が剥けているようです。
原因は直ぐに分かりました。直下に沢山の「大型豆」が落ちています。これは野兎の糞です。食べながら糞をしていたようです。栄養分が乏しいので、大部分が糞になったのではないかと同情したくなります。厳しい積雪期は、こんな物でも齧らなければ死んでしまいます。
大平山が大きく見えます。畑沢の最高峰、標高813.6m。この方角からの大平山は、「宝沢山」と呼ばれています。
ここからの眺めは180度も見える大絶景でしたので、何枚もの写真を繋げてパノラマ写真にしました。
さて、いよいよ下りです。写真中央から左上へ伸びている白い所は、畑沢の集落です。前回のスキー散策では、ビンディングを登りの時のままにして踵を固定しなかったので、下りは不安定そのものでした。しかし、私の安く購入したジルブレッタでも踵を固定できることを思い出しました。今度は固定です。
踵を固定すると、ボーゲンでなくても大丈夫、パラレルで滑れます。下の写真でお分かりでしょう。私でも登山靴でパラレルターンできます。気持ちよい滑りでした。山スキーならば本来はテレマークできればいいのですが、これからの習得は無理でしょう。
何も有名なスキー場でなくても、こんな素晴らしい雪原があります。しかも、誰に遠慮する必要もありません。そここに沢山の思い出が残っていて、目から入ってくるのは光だけではありません。光は親、兄弟、幼友達も伴っています。
幸い、金を儲ける技術はなくても若い時に遊んだ野外での技術があり、海外旅行するような貯えはなくて貧しくても節約の生活ができ、スポーツ選手のような頑強さがなくても故郷の山へ登れる程度の体力があります。これが幸福だと思いました。今、この時が幸せです。