畑沢の背中炙り峠(古道)には、嘉永五年(1852年)に造立(又は建立)された大きな湯殿山の石仏があります。このころ、幕府の直轄地である畑沢村、細野村と延沢村、さらに米津藩(長瀞)領の六沢、原田と上の畑は大変な危機に遭遇していました。背中炙り峠の通行を代官所の裁きによって禁止されていたからです。そもそもは、尾花沢村、土生田村と本飯田村がこの峠の通行を禁止するよう代官所に訴えたことに端を発しています。
そこで畑沢村などの3村は、正面から反論を展開します。嘉永六年に柴橋(現在の寒河江市内)預かり所の戸田嘉十郎に返答書を提出しました。峠の湯殿山造立は、その返答書を提出する前年に当たります。湯殿山造立は返答書を提出する決意を表明し、返答書が認められることを祈願した大事な石仏であると私は思っています。
それだけに、私は峠の湯殿山についての理解を深めようとしてきましたが、どうしても湯殿山と正面に刻まれている左脇に「長源霊苗書」と添えられています。揮毫した者の名前と思われたのですが、確証がありません。
ずっと分からないままでしたが、今年の11月28日に朗報がありました。このブログを御覧になっている長井市の方から長源霊苗の調査結果が送られてきました。長井市の方は畑沢の有路家の血を引いておられ、畑沢のことに関して精力的に調査されています。心強い仲間でもあります。その調査結果によると、長源霊苗は当時、山形藩内の長源寺の第二十五世住職で、峠の湯殿山が造立されたころは、70歳を少し超えたぐらいだったようです。かなり若い時から現在の河北町、山形市、寒河江市などの16ヶ所で石仏、鐘等へ揮毫しました。それほどまでに有名で達筆な僧だったのでしょう。峠の湯殿山に揮毫した同じ年に、河北町内と寒河江市内に造立した湯殿山に揮毫されていました。
そこで、そのうちの河北町に行ってみました。河北町谷地松橋地内です。若宮八幡神社の境内の向かって左端に湯殿山が立っています。丁度、御堂の裏になっていますので見えなくなりました。私の撮影ミスです。
近づいて見ると、背中炙り峠の湯殿山と字体が同じです。ただ、峠の湯殿山が凝灰岩を石材としていますが、松橋の湯殿山は火成岩です。最上川が近いのですが、これほどの石材は無理でしょう。恐らく、寒河江川からと思われ、その場合は花崗岩の可能性もあります。火成岩は凝灰岩よりは硬く緻密ですので、行書体の筆のかすれも繊細に表現されています。凝灰岩ではこうはいきません。
「長源霊苗書」の文字も峠の湯殿山と同じです。さらに、その下には二つの四角の印も細い線で示されています。
背面には、「嘉永五子年」「二月吉日」「村内講中安全」が見えます。間違いなく、峠の湯殿山が造立された年と同じです。
以上が河北町の湯殿山でしたが、「松橋」という地名はどこかで見たような気がしたので、調べて見ました。それは畑沢とも大きく関係していました。そして寒河江市の湯殿山も意味深長です。それについては、次回に報告します。
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