-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

石臼も畑沢製だと思います。

2014-03-12 18:36:08 | 民具

 ブログへの投稿も大分、久しぶりのような気がします。何せ、恥ずかしながら大きな勘違いをしていて、gooブログでのお別れをしていました。それ以来の投稿です。

 ところで、このたび、尾花沢市内に住んでおられる方々と、NPO法人を設立しました。「特定非営利活動法人おもだか水辺の生き物保全会」と言います。大変に長い名前ですので、ニックネームが必要な気がします。山形県内には、まだまだ誇るべき生き物が生息しています。しかし、環境の変化で風前の灯となっている所があります。故郷の大事な宝物を守ろうとして、仲間が立ち上がってくれました。

 

 さて、今日は我が家に伝わる宝物を紹介します。石臼です。畑沢で使ったことがあるようなないような、曖昧な記憶です。存在していたことだけは記憶しています。今から15年ほど前に、愚息の保護者会で「ソバ打ち教室」を行いました。それから、つい、ソバ打ちにのめり込んでしまい、栽培(畑沢で)、脱穀をして、石臼で製粉することにしました。石臼は畑沢の小屋で転がっていたものを、適当に組み合わせて持ってきました。上と下がちぐはぐです。苦労して脱穀までしたソバを石臼にかけました。なんとか粉にしてソバを打ちましたが、食べるとざらざらした物が入っていました。どうも、石臼から欠け落ちた石屑でした。それでも家族を騙しながら、全てを食べてもらいました。二度とソバ打ちはしなくなりました。

 この石臼は何だったのでしょう。よく見ると、普通の石臼ではないようです。普通の石臼は、花崗岩や玄武岩でできていて、硬くて緻密な構造です、ところが、この石臼には粒状のものが入っています。石英か長石の礫が混じっている凝灰岩のようです。とすると、石材の産地は畑沢と考えられます。昔、畑沢の奥に「ろうでん」という石切り場がありました。そこで採石された石材で石臼も作っていたようです。その石切り場では、「米突き(昔の精米方法)」に使う大きな石臼を作っていました。精米だけでなく、製粉用の石臼もありました。

 


もしかして、私の勘違いかな

2014-03-10 14:31:09 | 近況報告

「gooメールが3月10日で終了します。」

【データ保存はお早めに】gooメール(無料版)をご利用のお客様へ

を見て、私はgooブログが終了すると思って、既にブログを引っ越すつもりでいました。3月10日の11時過ぎになって、もうgooブログがなくなってしまったのかなと、一応、確認のため「畑沢通信」を開けてみたところ、ありました。少し、タイムラグがあるのかなと、1時間後にまた、開けてみました。それでもありました。

 もう一度、goo事務局からのメールを拝見しましたところ、私の間違いが発覚しました。gooブログ(無料版)」ではなくて、なくなるというのは「gooメール(無料版)」でした。私はgooブログを使っていますが、gooメールは使っていません。あのメールは、gooを使っていない人にも来ていたようです。

 

 私の勘違いでしたので、引っ越す必要もなくなりほっとしています。先の投稿では、一旦、お別れの挨拶を申し上げましたが、あらためてこれからもよろしくお願いします。今回もまたもや私のとちってしまった姿をお見せしました。


間もなく、このブログがなくなります。

2014-03-06 16:44:59 | 近況報告

 4月からgooブログにお世話になってきましたが、gooブログの無料版が平成26年3月10日で廃止されるとのことでした。私としては、非常に残念ですが、この投稿で最後とさせていただきます。

 

 私の下手なブログに毎日8、90人程が付き合って下さいました。ありがとうございました。このブログのお蔭で畑沢について認識を深めて下さった方がいらっしゃれば幸いです。

 

 少し休んでから、今度は別の形で何処かの無料ブログを始めますので、「畑沢通信」て検索して下れば、きっと再び会えるようにしたいと思います。


畑沢の家の数はどう変化したか

2014-03-04 20:53:05 | 歴史

 家の数(戸数)について、様々な文献を探してみました。一番古いのが江戸時代です。それよりも以前は、誰もいなかった訳ではなくて、文献に残っていないだけです。

 江戸時代は、村の名主が年貢等を代官へ報告しなければならなかったので、名主の家には現在まで記録が残されていたようです。

 ところで、江戸時代の古文書を私が直接に調べたわけではありません。次の文献に古文書を読み解いた内容が掲載されていましたので、それから戸数を抜き出しました。嘉永6年(1853年)の戸数は、畑沢村に伝わっていた伝説によります。

県立楯岡高校郷土部発行「郷土Ⅱ」
尾花沢市史編纂委員会編「村差出明細帳」
三宅太一郎著「村落の歴史 延沢そして三日町」
山形県個別明細図刊行会編「最新 尾花沢市全戸別明細図
ゼンリン住宅地図

 記録がある1686年から最多戸数の1958年まで約270年かけて、徐々に戸数が増加していきました。途中、何度も飢饉が襲って人口が減少したこともあったようですが、畑沢は比較的飢饉の影響が他の村と比較すると、少ないようです。他の村では、飢饉時の人口減少がとてつもなく激しかったようです。畑沢は地形的に飢饉の影響が少なくなるのではないでしょうか。聞くところによると、畑沢は冷たい「やませ風」が吹かないと言う人がいます。

 そして最多戸数65戸の1958年から、直近の2013年の35戸まではたった50年余りです。戦後の人口減少がいかに激しいかが分かります。戦後の中でも特に高度成長期には、大勢の人が都会へ流れ、基本的には今でもその傾向が続いています。この国のあり方は、これでよいのでしょうか。世の中が発達し成長するとはどのようになることなのでしょうか。「強い国になること」や「経済成長」が、これらの問題を解決する手段なのでしょうか。じっくり考える時が来ていると思います。でも、私自身が年老いた両親を畑沢に残して、畑沢を離れた後ろめたさを持っています。

 また、脇道に入りそうなので、本題に戻します。高齢者施設等に入って、留守になっている家も4、5軒ぐらいありますので、今の実質的な戸数は30戸ぐらいになってしまいます。戸数では最多時の2分の1以下になりました。

 これまでの歴史を考えると、異常な状況が起きています。私の子ども時代は、一軒の家に祖父母、両親、3人ぐらいの兄弟が住んでいました。今は一軒の家に、1人か2人が多くなっています。もしも、人口で比較したとすると、現在は最多時の4分の1以下になるのではないでしょうか。

 

 この状況を御覧になれば、スビタレにもかかわらず私が何故、畑沢に肩入れしているかをお分かりいただけると思います。隣の細野地区には、私の同級生が5人も残りました。ところが畑沢に私の同級生は誰も残っていません。こんな「スビタレ」で「ヤジャガネ」くても、少しでも役に立てれば思っているからです。

 昭和50年1月 このころの戸数は60戸ぐらいです。


背中炙り峠への登り道を確認へ

2014-03-02 21:30:04 | 近況報告

 細野でのイベントが終わってから少し時間がありましたので、清水畑へ足を伸ばしました。清水畑の奥へ到着すると、さらに欲が出てきました。峠方向が明るく見え、しかも近くに感じました。「うん、行ってみるか」ということになりました。元々、そんな計画はありませんでしたが、気ままなリタイアの身です。如何様にも、対応できます。2月15~17日の湿った雪の影響で、雪がぬかりにくくなっています。しかし、心配なところがありましたので、山スキーを装着しました。順調に進みます。途中で後ろを振り向くと、畑沢、荒町、延沢が見えました。まだまだ雪の中です。