栗隈城は、丸亀市綾歌町栗熊にある中世城郭跡です。鎌倉幕府が滅び足利氏による室町幕府が始まったものの、政権基盤は弱く南北朝の騒乱の時代に、全国各地で北朝方・南朝方に分かれ争そわれ、城郭が築かれていました。
栗隈城もその一つで、白峰合戦で軍功をあげた詫間の海崎城主が長尾大隅守元高と名乗り、城山山頂付近に西長尾城を構え、その支城として配置した城です。城主には、四男の田村上野介親光が入り、その後、六男が継いだそうです。鵜足・那珂郡南部で勢力を誇っていた長尾一族は、1580年ごろ、土佐の長宗我部元親軍の中讃攻略に伴い、西長尾城主の座を元親の重臣・国吉甚左衛門に譲った。
その後、豊臣秀吉による全国統一により騒乱の時代は終わり、栗隈城も役目を終えたようです。その後、手は加えられず良好な状態が保たれているそうですが、どれが城跡の土塁なのかよくわかりませんね~(^^;;
道中、竹に矢印が貼り付けられてて、なんとなくたどり着いた先が上の写真です。これが多分、本丸跡なのだと思います。。。
下の写真は、道中の風景です。
栗隈城もその一つで、白峰合戦で軍功をあげた詫間の海崎城主が長尾大隅守元高と名乗り、城山山頂付近に西長尾城を構え、その支城として配置した城です。城主には、四男の田村上野介親光が入り、その後、六男が継いだそうです。鵜足・那珂郡南部で勢力を誇っていた長尾一族は、1580年ごろ、土佐の長宗我部元親軍の中讃攻略に伴い、西長尾城主の座を元親の重臣・国吉甚左衛門に譲った。
その後、豊臣秀吉による全国統一により騒乱の時代は終わり、栗隈城も役目を終えたようです。その後、手は加えられず良好な状態が保たれているそうですが、どれが城跡の土塁なのかよくわかりませんね~(^^;;
道中、竹に矢印が貼り付けられてて、なんとなくたどり着いた先が上の写真です。これが多分、本丸跡なのだと思います。。。
下の写真は、道中の風景です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます