法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町に位置します。斑鳩は生駒山地の南端に位置し、大和川で河内国とつながる交通の要衝でもありました。国宝・重要文化財の建造物が多数あり文化財の宝庫でもあります。また、平成5年(1993)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)の構成遺産でもあります。
「日本書紀」に聖徳太子(厩戸皇子)が推古9年(601)この地に斑鳩宮の建造に着手し、推古15年(605)に移り住んだとの記載があります。現在の東院付近が斑鳩宮の所在地だと考えられています。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、現在の法隆寺です。天智天皇9年(670)に法隆寺が全焼し、現存する法隆寺はその後に再建されたものになります。法隆寺資財帳に持統7年(693)に法隆寺で仁王会が行われたとの記載があることから、少なくとも伽藍の中心であった金堂は完成していたのではないかと考えられています。また資財帳に和銅4年(711)に五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成との記載があり、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたと考えられています。
下の写真は、西院伽藍を南から見た姿で、写真中央が中門、その左後方に五重塔、右後方に金堂の屋根が少しだけ見えています。
「日本書紀」に聖徳太子(厩戸皇子)が推古9年(601)この地に斑鳩宮の建造に着手し、推古15年(605)に移り住んだとの記載があります。現在の東院付近が斑鳩宮の所在地だと考えられています。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、現在の法隆寺です。天智天皇9年(670)に法隆寺が全焼し、現存する法隆寺はその後に再建されたものになります。法隆寺資財帳に持統7年(693)に法隆寺で仁王会が行われたとの記載があることから、少なくとも伽藍の中心であった金堂は完成していたのではないかと考えられています。また資財帳に和銅4年(711)に五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成との記載があり、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたと考えられています。
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