越前で長く過ごした光秀にとって、娘のガラシャも生まれて、第二の故郷と言ってよい越前。
朝倉家の家臣となった時期もありましたが、やがて、信長の家臣、柴田勝家が朝倉氏を滅ぼす。
勝家からの安堵状で、東大味の人達は戦火を逃れ、戻って再び暮らすことが出来た。
小さい社の中に、黒くて小さな秀光公の木像があります。
以下、福ふくガイド引用。
福井市の一乗谷には光秀の屋敷跡は見つかっていませんが、一乗谷から山越しに約3、5km、現在の福井市東大味町に明智光秀の屋敷跡と伝承される土地があり、越前での滞在の最後の短い期間は、ここでに妻子と住み、娘、明智玉子(細川ガラシャ)も誕生したと云われています。称念寺から東大味へ移転し、東大味から朝倉街道を通って一乗谷に通っていた頃が、朝倉の家臣でありながら、足利義昭の近臣として行動、細川藤考(幽斎)に出会い家臣となり、あとに足利義昭、織田信長に仕えるようになった契機だったかも知れません。
この辺は、これからの大河で登場する場所です。
現在、16時。
後は、海岸線でも走って南下を考えましたが、暗くなるし、ラジオで各地の渋滞情報。
おとなしく高速乗って19時帰宅。
明智光秀ゆかりの地、アット福井でありました。