続いて、島原城へ
城の直下に駐車できます。
城キャンプなるものがあり、ここでキャンプ泊しながら、島原散策ができます。
トレーナーハウスもレンタルできるみたいです。
3月末なのに藤が満開。スゲイ、さすが南国と思って近寄ると、造花。
これはいらんのとちゃう?
堀の桜が満開。お花見スポットです。こっちは本物。
少し甘い蜜で食べる寒ざらし。タピオカと同じもちもち系。
お皿に入れて提供では、机も提供しないといけないし、テイクアウトはできない。
伝統の蜜だけでなく、ミルクティー仕様でも行けるはず。
起業家の方、展開してみませんか。
城からの眺め。
眉山の山体崩壊は、左側へ海まで続く範囲です。
城の中は資料館。
島原の乱の概要は、ウィキ参照。
島原の乱は、寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。従来、信仰的側面は表面上のもので、あくまで厳しい収奪に反発した一揆であるというのが定説であったが、事態の推移から、単なる一揆とする見方では説明がつかず、宗教的な反乱という側面を再評価する説が出ている[1]。
もともと地層が火山灰などで、農耕に適さない。
そこへ厳しい年貢の取り立て。キリスト教の水面下の組織や、沖縄と同様に困ったときにお金を貸しあう講などの組織が発達しており、大きな一揆を水面下で組織しやすかったとのこと。
キリスト教徒でカリスマ性のある、16歳の天草四郎をシンボルとして組織編制されました。
農地の生産性と年貢のバランスが取れていないのに、城の建設など金の掛かることも幕府が始めてしまう。
大規模一揆を構成するには水面下の組織は便利であるが、一方で、討伐の名目としてキリスト教の反乱は正当化されやすい。
悲しいかな、最後は全滅。
人口が半数になったところへ、九州の各地の藩から農民を融通して住まわせて、今に至っています。
藩を超えて農民が住居を変えることのなかった江戸時代ですが、ここの人のルーツは様々。