時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

IU言語学コミュニティの住人

2007年02月03日 | Indiana大学
また一週間を乗り切れました。今学期はもう毎週ぎりぎりの勝負です。一週でも手を抜くと成績もまともにならないので、プレッシャーかかってます。

ついにというかやっとというか、冬らしい寒さがこのアメリカ中部にやってきました。画像はふだん見ているWundergroundというサイトの気象データ。現在の気温は –14℃。華氏(F)で一ケタ台の気温ってのはさすがにインパクトあります。今後数日こういう天気が続くらしい。冬はたまに – 20℃位になると聞いてましたが、ついに経験することに。で、さっき、夜8時台に外で走ってきました。

金曜日の授業は昼過ぎで終わるのですが、その後プロジェクトグループのミーティング、Working Paper in Linguisticsの編集会議、言語学科の研究発表会だのあって帰りが遅くなりました。授業準備・採点・宿題ともに多い上、会議、新教員採用のための発表など余分な行事も多く、時間が非常にきついので、逃げたかったのですが、発表者はBob Port先生。さすがに今組んでいる人なので、顔出したほうがいいかと。

内容は昨年のLanguageに載った論文の続き。「現在の音韻論で扱われている「音素」のような抽象的・離散的な単位は、認知・心理レベルで記憶・操作されている単位としては不十分で、実在する根拠がない」という主張です。言語学者が主な聴衆のせいか反対意見や疑問が多数。Keith Johnsonさん他が主張する「話者の声質や個人情報なども含んだ詳細な情報が認知・記憶されている」という点はいいのですが、じゃあ「抽象的な単位が本当に不要か」というところはまだ十分に説得力のある根拠を提出するには至っていない感がありました。

わたしは詳細(連続的)・抽象(離散的)レベルの表象単位、どっちも心理的実在性があると考えたほうがいいだろうと思います。後者だけではダメなのはもう明らかで、音声実質やバリエーションをまともに検討しない、離散的なシンボル操作・分析だけの音韻論は終わるべきだと個人的には思いますが。

終了後は昼の残りのベーグルを食べながら、学生仲間であれこれ雑談。そこで友人がBeckwithという先生を紹介してくれました。IUには「中央ユーラシア研究(Central Eurasian Studies)」という珍しい学科があるのですが、そこで日本語や高句麗の言語の歴史を研究している方だそうです。彼の高句麗の言語資料などに基づいた研究によると、高句麗・任那・新羅などの言語はおそらく日本語と同系統で、韓半島が後にやってきた現在の朝鮮語系の言語で塗りつぶされるとともに姿を消したのだ、という考え。だから日本語は、琉球を除いて同系統語を持たぬ準孤立語なのだとか。言語学科だけでなく、英語学科、スペイン語学科などの言語学系の人、認知科学、心理学の人なども来るので、IU全体の言語学関連人口はけっこう多い。今日も院生・教員など50人近く集まったでしょうか。まだまだいろんな人と出会うチャンスがあるようです。

-12℃の中を走ってみたところ、たしかに寒い。ひんやりとして、冷凍庫の中にいる感じ。でも風も強くないし、しっかり防寒をしていれば問題なく走れます。明日は-16℃まで行くらしいのですが、プログラミングの宿題が出ているので、図書館でみっちり取り組まねばなりません。さすがに「外に出たら凍死する!」と思うほどになるのかどうか、いまのところ、何とかなりそうな気がしてます。