先週の月曜日、楽しみにしていたイベントがありました。会場は1100人以上が収容できる、キャンパス内でも最も立派な、Auditorium。ゲストは生物学者のリチャード・ドーキンス氏でした。
インディアナ大学では、毎学期テーマを決めて、招待講演、ビデオ上映、展覧会などを催すのですが、今学期はダーウィン生誕200周年ということで、進化がテーマ。ドーキンスさんも、新著の宣伝もかねてアメリカの大学をあちこち回っている最中で、来てもらったようです。
「ノーベル賞おめでとうございます(この日がOstrom教授の経済学賞の発表でした)」から始めたドーキンスさん、講演は早々切り上げて、長々質疑応答の時間を取りました。「ボクはアメリカ以上に進化論を受け入れない人の多い、トルコからの留学生です。そんな国の無神論者としてどうしたらいいでしょう」というマジメなものから「よー、こんちわ」と軽いノリから入って、「進化論の教育に聖書に書かれている内容を役立てることはできないの?」というちょっとフザケタ(真剣かもしれません)質問までいろいろ。ドーキンスさんもときにユーモアたっぷりに、たいていは大真面目に回答してました。
しばしば拍手が沸きあがり、最後はスタンディングオベーション、講演後は著書のサイン待ち、出待ち、と歓迎するむきが多数。アメリカの無神論活動をサポートする学生グループ、「神などなくても善良に生きられる」という広告をバスに出す活動をするグループ(知り合いの教授がやってました)などがブースを出していて、「こういう人もやっぱりいるんだ」と知ったのも面白い機会でした。少し話してみましたが、「アメリカで無神論者でいるのは容易なことじゃない」ということのようです。
私はドーキンス氏の主張にほぼ全面的に賛成ですが、それは私自身が根っからの無神論者だからで、いってみれば、彼に言われるまでもなくそう思ってきた、というだけ。そんな、もともと同じ考えの人間が共鳴して講演に来たとしても、多数派であるキリスト教徒に届くとは、あまり思えません。
なのに彼はなぜわざわざアメリカに来るのか、私なら「割に合わん」と諦めるに違いない。質問に対する答えから判断するに、「『地獄に落ちる』など、恐怖心に訴えて自分の信ずるところを子供に押し付けるのは、虐待である」と思っていることが、この活動を続ける使命感を支える一要因のようです。立派、という気もするし、余計なお世話かもしれないし、空しい努力かもしれない。でも、真剣、本気であることは分かったし、茶化すとか、揶揄するとかいう気にはなりません。
信者がみんな子供をいわば「洗脳」している、とも思いません。ただ、後日行われた討論会で、ある牧師さんが「神がなくても我々は善良でいられるかもしれないが、神がなくては我々は救われない」と言ったそうで、それは脅しに近くありませんか、と思わなくもない。私の答えは「誰も救われたりしねーよ」ですが。こんな自分についても、どうしてアメリカに来たのか、たまに自問自答します。教育・研究の水準だけが問題だったからですが、実際には、ここまで自分たちによくしてくれた人たちのほとんどはキリスト教徒(それもけっこう敬虔な)で、ちょっとフクザツです。
インディアナ大学では、毎学期テーマを決めて、招待講演、ビデオ上映、展覧会などを催すのですが、今学期はダーウィン生誕200周年ということで、進化がテーマ。ドーキンスさんも、新著の宣伝もかねてアメリカの大学をあちこち回っている最中で、来てもらったようです。
「ノーベル賞おめでとうございます(この日がOstrom教授の経済学賞の発表でした)」から始めたドーキンスさん、講演は早々切り上げて、長々質疑応答の時間を取りました。「ボクはアメリカ以上に進化論を受け入れない人の多い、トルコからの留学生です。そんな国の無神論者としてどうしたらいいでしょう」というマジメなものから「よー、こんちわ」と軽いノリから入って、「進化論の教育に聖書に書かれている内容を役立てることはできないの?」というちょっとフザケタ(真剣かもしれません)質問までいろいろ。ドーキンスさんもときにユーモアたっぷりに、たいていは大真面目に回答してました。
しばしば拍手が沸きあがり、最後はスタンディングオベーション、講演後は著書のサイン待ち、出待ち、と歓迎するむきが多数。アメリカの無神論活動をサポートする学生グループ、「神などなくても善良に生きられる」という広告をバスに出す活動をするグループ(知り合いの教授がやってました)などがブースを出していて、「こういう人もやっぱりいるんだ」と知ったのも面白い機会でした。少し話してみましたが、「アメリカで無神論者でいるのは容易なことじゃない」ということのようです。
私はドーキンス氏の主張にほぼ全面的に賛成ですが、それは私自身が根っからの無神論者だからで、いってみれば、彼に言われるまでもなくそう思ってきた、というだけ。そんな、もともと同じ考えの人間が共鳴して講演に来たとしても、多数派であるキリスト教徒に届くとは、あまり思えません。
なのに彼はなぜわざわざアメリカに来るのか、私なら「割に合わん」と諦めるに違いない。質問に対する答えから判断するに、「『地獄に落ちる』など、恐怖心に訴えて自分の信ずるところを子供に押し付けるのは、虐待である」と思っていることが、この活動を続ける使命感を支える一要因のようです。立派、という気もするし、余計なお世話かもしれないし、空しい努力かもしれない。でも、真剣、本気であることは分かったし、茶化すとか、揶揄するとかいう気にはなりません。
信者がみんな子供をいわば「洗脳」している、とも思いません。ただ、後日行われた討論会で、ある牧師さんが「神がなくても我々は善良でいられるかもしれないが、神がなくては我々は救われない」と言ったそうで、それは脅しに近くありませんか、と思わなくもない。私の答えは「誰も救われたりしねーよ」ですが。こんな自分についても、どうしてアメリカに来たのか、たまに自問自答します。教育・研究の水準だけが問題だったからですが、実際には、ここまで自分たちによくしてくれた人たちのほとんどはキリスト教徒(それもけっこう敬虔な)で、ちょっとフクザツです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます