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PAP-JAPAN代表、川井眞理のお仕事(以外もてんこ盛り)日誌

ご隠居さんの趣味はほどほどに…

2010-02-04 | その他
何年か前から落語に興味を持っている。
自分で高座にあがりたいと思っているわけではなく、脚本書きに興味を持っている。
ちょっと書いてみたいテーマがあるのだ。

たまたま私の所属する経済団体のビジネス交流会で『落語に学ぶビジネスチャンス』というテーマのがあり、「どんな風にビジネスと落語をくっつけるのだろう?」と少し期待して出かけた。

結果は無残、実は肝心の本編を聞かず、途中で退席して帰ってきてしまった。
それほど聞く気もしない内容だったということ。

演者は某中小企業の社長だったらしい。
素人の中には玄人はだしのワザを見せる人も多いのでそれは全然構わないのだが、紹介に立った世話役が高座の社長に気を使っているのが丸わかり、こちらは一気に白けた。

芸人になるなら、その日、その場はあくまでも観客が主役である。
そんな場で演者の学歴やら社歴を語ってどうするというのだ!?
その上、その社長は全くの独学で落語を学んだらしい。
道理であり得ない所作を見せたわけだ。

メタボ気味の体をしょっちゅう前へ揺する変な癖があり、気になって仕方がない。
目を閉じて聞くと到底落語とは思えず、一般的なビジネス講演を聞いているがごとく。
その上、前に書見台を置きシナリオを見ながら演じるのは到底許しがたい。
そんなレベルで人前に出るな!と思ってしまった。

それなのに付合いで参加した聴衆が結構いるらしく、全然おかしくも何ともない場面なのに背広姿の何人かの中年男性たちがクスクス笑う。
前置きがやたら長く(30分以上芸名の自己紹介が続いた)、なかなか本題へ入らない――。
あとは言うもアホらしいので割愛する。

私の学んだ結論はこうだ。
①よほど上手になるまでは、素人は高座になど上がってはいけない。
まるでご隠居さんの下手の横好き趣味を誰も止められない、そんな印象が濃厚だ。
②やはり素人の演じる落語に一切の期待をしてはいけなかった。
参加費として1000円も取られたが(あとの懇親パーティのおつまみ代だったかも)、こちらが゛聞いてやる謝金゛を欲しいぐらいだ。
③この経済団体、あまり得るところもないままこの何年か会員登録をしていたのだが、今期ですっぱり退会する決心がついた。

今後、自分が趣味ベースで人に何かを披露しようとする場合、よくよく注意せねばならないと自戒。

買い叩きはゴメンだ

2010-02-04 | 仕事
新たに知り合った社長から「テキストにする文章をリライトしてくれないか?」と打診された。

ちゃんとベースになるテキストがあるので、ライターに専門知識が求められることはない。
要するに版権の問題があるので、ベースの理論や趣旨は大切にしつつも雛形のテキストとは全く別物を作って欲しいという注文だ。

こういう仕事は決して嫌いではない。
むしろ面白そうと思えるし、そもそもこの手の仕事は得意な私だ。
しかしギャラを聞いて一瞬耳を疑った。
「1頁500円から600円でお願い出来ないか?」というのだ。

どんな分野であれ、どんな簡単な文章であれ、それを別物に作り変えるにはかなりの理解力と文章力を要する。
1頁何文字なのか聞きそびれてしまったが、ここまでライターの仕事を見くびる人とは仕事は出来ない。

以前、自然食品の会社でライター仕事を求められた時も、驚くほどギャラが安くて呆れた。
そこから思い知ったのは、世間には自分では全くライティングできないくせに(変な文章しか書けない)、ライターの仕事を必要以上に見くびっている向きが多いという事実だ。

特に零細企業の社長クラスに多い気がする。
「そんなもん(執筆)、そこらのライターに適当に早くやらせろ!そしてできるだけ買い叩け!」という考えがひしひしと伝わってくる。
結構大変な仕事だということを忘れてもらっちゃ困る。

上記で言うと、1頁書くのに多分1時間はかかるだろうから、いくら頑張っても時給500円から600円の仕事にしかならないということ。
アホらしくてやってられない。
私が「(コピーではない)純粋なライター仕事をするのはもう止めよう」と思った背景にはこういう事情もある。

自分の価値を高く保ち、今後執筆は自分の仕事(主張)のためにのみするべし。

TV視聴後の、何で?

2010-02-04 | その他
TVというメディアの性質がわかれば「そんなもん」と割り切れるのだろうけど…。
番組の作り方が一方的な気がして、本当のところをもっと公平に取材してよと言いたい。

一昨年年末から昨春ぐらいまで、TVでは製造業で働いていて派遣切りに遭った人たちの゛今゛をよく報道していた。
皆似たりよったりの、「派遣切りされて仕事がない、食べていけない」という人たちの切羽詰った暮らしぶりや周りの支援の無さをこれでもかとばかり見せていた。

そして今、NHKの報道番組では゛無縁社会゛リポートとして、都会で孤独死する中高年を盛んに取り上げている。

いずれも確かに真実の一面もあるのだが、そして明日はわが身かもと切実に感じないわけではないのだが、今という時代は激しく移り変わりつつあるのだ。
会社や社会にすべてを委ねていればそこそこ幸せに生きられた時代はとっくに去り、好むと好まざるとにかかわらず、かなりの部分で自助努力が求められる。

新卒時代に就職先がなくやむなく派遣を選んだ人たちは本当に気の毒と思うが、とうの昔に学校を卒業した大人たちにとっては派遣で働いていると正社員よりもずっと給料が良い一時期が確かにあったのだ。
その時、どうして自分に投資したり、先のことを考えて転職するなりしなかったのか。

会社が倒産して家庭も崩壊、一人暮らしになって故郷にも帰れなくなった男性は本当に気の毒だ。
しかし何で(今でも多くの男性がそうだが)職場と家さえ往復していれば良しとする暮らしをするのか?
孤独死がイヤなら、どうして親戚との付き合いを断つのか。
どうしてそれなりに友だちを作る、近隣のネットワークに参加するなりしなかったのか?

個人的には孤独死を決して悪いこととは思ってないので(周りの人には迷惑をかけるが、本人としては悪くないという意味)、TVはどうしても孤独死を悪いものとして取り上げたいのかもしれないとも思うが、この手の作りでは常に対象が悪い政治(時代)の犠牲者として紹介されるのが腑に落ちない。

本人にも多少、あるいはかなりの部分で責任のあることではないのか?
安易に誰もが自助努力をすべきとも、自助努力が全ての問題を解決するなどとも言うつもりはない。
セーフティネットの機能は大事と思う。

それでも一方的に取材対象の個人を犠牲者とばかりに見せられることにはすごく抵抗を感じる。
自助努力をした上で追いつかない部分を国がいつでも補填してくれる、そういう生き方が大事というのなら納得できるのだが――。

(生保の受給要件に、貧困に陥った理由を一切問わないというのがある。
上記はこれを前提として理解した上での、敢えての疑問である)