先日、ある大学で男子学生から、「僕は大学時代に打ち込んだことが何もないので、ESや面接で尋ねられても言うことが何もないんです。どうしたらいいでしょう?」と相談された。
こういう場合、私のすることはただ一つ。
ライターに戻ったつもりで、「ふ~ん、それは困るね~。大学時代に何もしなかったと思ってるんやねー。どうして?まあそれはちょっと脇へ置いといて、普段何をしているのか聞かせてよ?」てな具合に、本人に高校時代や、必要があれば中学・小学校時代のことなどさかのぼって色々尋ねていく。
聴いているうちに、何か「ン!」と思うコトが見つかったら、「どうしてそれをしようと思ったの?」「その時、どんな気持ちだった?」「他の人にそれについて何か言われた?」などと、事実の奥に畳まれた感情や経験、性格、考えたことなどに焦点を当てていく。
するとその辺りから大抵はユニークなコトがポロポロと出てくる。
この男子学生は大学生活に1本筋を通した考え方を持っていたので、それを中心に色々聴いていくと、かなりのボリュームのエピソードがどんどん見つかった。
「〇〇があなたの特徴じゃないの?△△をしたから××と考えたんでしょう?」と本人に確認すると、男子学生は「あ!」という顔をし、そして「すぐには上手く作文できないかもしれないけど、書くことが沢山見つかって嬉しいです。早速今夜から書いてみます」とちょっと明るい顔になって帰っていった。
表現すべきものが見つかったら、即うまく文章で効果的に表現できるかというと、実はそこにはまたまた深くて広い溝が横たわっているのだけれども、しかし「自分には何もない…」と思っているのと、「自分にはこんなに書くことがいっぱいあった!」と思うのとでは、本人のやる気が全く違ってくる(はず)。
社会人基礎力大流行り現象?を受けて、昨今の大学生の自己PRやら長所やらを書くシートには、これでもか!というほどの゛羊頭狗肉言語゛が並ぶ。
ほとんどがこじつけなので、大層に言う割に中身は単に学生の本分にあたることだったり、人として当たり前のことだったりするのだが、しかし、そうなっているのは書き方・見つけ方のちょっとしたコツがわからないからというのも大いに影響していると見た。
そして、今度は勤務校の女子学生から履歴書の添削を頼まれた。
彼女には気の毒だが、第三者の視点で読むと「あ~、もったいないなぁ~」と思うことしきり。
赤ペンで用紙を真っ赤にしてしまった。
尋ねている企業の狙いが明らかなのに、そこを全部スルーして、起こった事実だけをアッサリと書いて終わっている。
こんなESや履歴書を書いていては、永遠に企業に興味をもたれそうもない。
だが、自分の長所や頑張ったことは案外本人には見えていないことが多い。
これは何も大学生だけでなく、エエ年した大人も同じだ。
もちろん、偉そうにこんなことを書いている私も。
つまり、自己PRや頑張ったことというのは、゛自分では見えない自分の背中゛のようなものだからだと思う。
だから人と会話することで、他人の眼に映った自分(の背中)として、初めてしっかりと見えてくるというわけ。
自慢じゃないが、ライター歴20年の私にはこの種の仕事はかなり得意なことがごく最近わかってきた。
それは人援けする余裕があるということを意味する。
どこかで困ってる学生さんをもっと援けてあげたいなぁと本気で思う。
さしあたり、こういうのは『自己表現法』とでもいうのか。
こういう場合、私のすることはただ一つ。
ライターに戻ったつもりで、「ふ~ん、それは困るね~。大学時代に何もしなかったと思ってるんやねー。どうして?まあそれはちょっと脇へ置いといて、普段何をしているのか聞かせてよ?」てな具合に、本人に高校時代や、必要があれば中学・小学校時代のことなどさかのぼって色々尋ねていく。
聴いているうちに、何か「ン!」と思うコトが見つかったら、「どうしてそれをしようと思ったの?」「その時、どんな気持ちだった?」「他の人にそれについて何か言われた?」などと、事実の奥に畳まれた感情や経験、性格、考えたことなどに焦点を当てていく。
するとその辺りから大抵はユニークなコトがポロポロと出てくる。
この男子学生は大学生活に1本筋を通した考え方を持っていたので、それを中心に色々聴いていくと、かなりのボリュームのエピソードがどんどん見つかった。
「〇〇があなたの特徴じゃないの?△△をしたから××と考えたんでしょう?」と本人に確認すると、男子学生は「あ!」という顔をし、そして「すぐには上手く作文できないかもしれないけど、書くことが沢山見つかって嬉しいです。早速今夜から書いてみます」とちょっと明るい顔になって帰っていった。
表現すべきものが見つかったら、即うまく文章で効果的に表現できるかというと、実はそこにはまたまた深くて広い溝が横たわっているのだけれども、しかし「自分には何もない…」と思っているのと、「自分にはこんなに書くことがいっぱいあった!」と思うのとでは、本人のやる気が全く違ってくる(はず)。
社会人基礎力大流行り現象?を受けて、昨今の大学生の自己PRやら長所やらを書くシートには、これでもか!というほどの゛羊頭狗肉言語゛が並ぶ。
ほとんどがこじつけなので、大層に言う割に中身は単に学生の本分にあたることだったり、人として当たり前のことだったりするのだが、しかし、そうなっているのは書き方・見つけ方のちょっとしたコツがわからないからというのも大いに影響していると見た。
そして、今度は勤務校の女子学生から履歴書の添削を頼まれた。
彼女には気の毒だが、第三者の視点で読むと「あ~、もったいないなぁ~」と思うことしきり。
赤ペンで用紙を真っ赤にしてしまった。
尋ねている企業の狙いが明らかなのに、そこを全部スルーして、起こった事実だけをアッサリと書いて終わっている。
こんなESや履歴書を書いていては、永遠に企業に興味をもたれそうもない。
だが、自分の長所や頑張ったことは案外本人には見えていないことが多い。
これは何も大学生だけでなく、エエ年した大人も同じだ。
もちろん、偉そうにこんなことを書いている私も。
つまり、自己PRや頑張ったことというのは、゛自分では見えない自分の背中゛のようなものだからだと思う。
だから人と会話することで、他人の眼に映った自分(の背中)として、初めてしっかりと見えてくるというわけ。
自慢じゃないが、ライター歴20年の私にはこの種の仕事はかなり得意なことがごく最近わかってきた。
それは人援けする余裕があるということを意味する。
どこかで困ってる学生さんをもっと援けてあげたいなぁと本気で思う。
さしあたり、こういうのは『自己表現法』とでもいうのか。