七夕の日にアップしてから何と3ヶ月以上もご無沙汰してました。忙しくしていたというより,最初のの原因はパソコンの不具合。安全のため複数使うことにしているマシンが,ほぼ同時期に起動しなくなってしまったのです(T_T)。とんだ災難でした。その後は・・・お仕事の濁流に呑み込まれてました・・・。
その間も多くの方にご覧頂きました。更新しておらず,ごめんなさい。
前回アップの直後7/9には,unknownランエボさんとnaporinさんからコメントを頂きました。ありがとうございます。
unknownランエボさんからは,初めていただいたコメントでした。整理された内容を提示されて,勉強させられました。言葉による指導と,言葉によらない指導について,そのそれぞれの特性をふまえたご指摘です。皆さんも是非読んでみていただきたいと思います(7/9のブログ一番下の「コメント」欄の数字をクリックしてください)。
確かにそうですね。言葉以外に語るものは多い。というより,言葉が飾ることを知っているがために,言葉を信じない気持ちを心の片隅に持っているのが,傷ついてきた者の悲しさか。
ただ,老婆(爺?)心ながら補足すると,言葉のもつ力はレイ・L・バードウィステルの知見をふまえてもなお強大です。言葉は,ただ単に考えを伝える「メディア」としての働きだけでなく,考えるという行為そのものや,その集大成としての思想をさえ司る中心的なツールとしての顔を持つのです。むしろこれこそが言葉の本質かもしれない。昨今耳にすることの多い「言葉の教育」に対しての注目は,こういった事実をふまえたものと考えるべきでしょう。
ここで言いたいことは何かというと,我々が通常行っている発話では,実に無駄というか,必要以上の余分なことが語られており,教室で言葉に配慮するだけで,意外と伝えたいことがよく伝わるようになるということなのです。
無駄といっても,児童・生徒との関係を築くうえである意味効果的に働く無駄な言葉があります。学習からは少しあるいは全くかけ離れていても,人間関係を大きく進展させるプラス効果が期待できることがある。
一方,マイナス効果しかもたらさないといった無駄な言葉もあるでしょう。それは,伝えたいことを伝わらなくする,あるいは伝わりにくくする無駄です。伝えたいことのエッセンスに付け加わった「言葉の贅肉」によって,教師が本当に伝えたいことをぼやかしてしまったり,わからなくしてしまう。そしてそれが学習活動における子どもたちの「わからない」や「できない」につながってしまうのです。
おもしろいですよ,授業の様々な場面で語っている言葉をビデオかなんかで録ってみて,それを書き起こしてみたら。もちろん話し言葉と書き言葉といった使い方の違いはあります。しかしそれを差し引いて考えても,実に多くの無駄な言葉を口走っているものなのです,少なくとも私はね。そしてそれらを冷静に分析してみると,確かに聞き手の理解を阻んでいるように思われる言葉の使い方が数多く見つかるのです。
何をどのように語ればよいか。プロの教師として,これを適切に使えるようになりたいものです。意図的・効果的に無駄を入れ,無駄を省く。特に努力することなくこれらを自由自在に操れる言葉遣いの天才もいるでしょう。しかし私のような凡人には訓練が必要です。ハイ,だから今も訓練中です。今ざっと読み返してみると,今日書いた文章は,どうにも無駄が多いようです。私は一生涯かかりそうですので,楽しみながらやっていきます(^-^)。
長くなりすぎました。ということで,naporinさんへはまた後日。
その間も多くの方にご覧頂きました。更新しておらず,ごめんなさい。
前回アップの直後7/9には,unknownランエボさんとnaporinさんからコメントを頂きました。ありがとうございます。
unknownランエボさんからは,初めていただいたコメントでした。整理された内容を提示されて,勉強させられました。言葉による指導と,言葉によらない指導について,そのそれぞれの特性をふまえたご指摘です。皆さんも是非読んでみていただきたいと思います(7/9のブログ一番下の「コメント」欄の数字をクリックしてください)。
確かにそうですね。言葉以外に語るものは多い。というより,言葉が飾ることを知っているがために,言葉を信じない気持ちを心の片隅に持っているのが,傷ついてきた者の悲しさか。
ただ,老婆(爺?)心ながら補足すると,言葉のもつ力はレイ・L・バードウィステルの知見をふまえてもなお強大です。言葉は,ただ単に考えを伝える「メディア」としての働きだけでなく,考えるという行為そのものや,その集大成としての思想をさえ司る中心的なツールとしての顔を持つのです。むしろこれこそが言葉の本質かもしれない。昨今耳にすることの多い「言葉の教育」に対しての注目は,こういった事実をふまえたものと考えるべきでしょう。
ここで言いたいことは何かというと,我々が通常行っている発話では,実に無駄というか,必要以上の余分なことが語られており,教室で言葉に配慮するだけで,意外と伝えたいことがよく伝わるようになるということなのです。
無駄といっても,児童・生徒との関係を築くうえである意味効果的に働く無駄な言葉があります。学習からは少しあるいは全くかけ離れていても,人間関係を大きく進展させるプラス効果が期待できることがある。
一方,マイナス効果しかもたらさないといった無駄な言葉もあるでしょう。それは,伝えたいことを伝わらなくする,あるいは伝わりにくくする無駄です。伝えたいことのエッセンスに付け加わった「言葉の贅肉」によって,教師が本当に伝えたいことをぼやかしてしまったり,わからなくしてしまう。そしてそれが学習活動における子どもたちの「わからない」や「できない」につながってしまうのです。
おもしろいですよ,授業の様々な場面で語っている言葉をビデオかなんかで録ってみて,それを書き起こしてみたら。もちろん話し言葉と書き言葉といった使い方の違いはあります。しかしそれを差し引いて考えても,実に多くの無駄な言葉を口走っているものなのです,少なくとも私はね。そしてそれらを冷静に分析してみると,確かに聞き手の理解を阻んでいるように思われる言葉の使い方が数多く見つかるのです。
何をどのように語ればよいか。プロの教師として,これを適切に使えるようになりたいものです。意図的・効果的に無駄を入れ,無駄を省く。特に努力することなくこれらを自由自在に操れる言葉遣いの天才もいるでしょう。しかし私のような凡人には訓練が必要です。ハイ,だから今も訓練中です。今ざっと読み返してみると,今日書いた文章は,どうにも無駄が多いようです。私は一生涯かかりそうですので,楽しみながらやっていきます(^-^)。
長くなりすぎました。ということで,naporinさんへはまた後日。