Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

『機会の扉』がシューベルトとハスリンガーに開いた(No.1759)

2010-07-15 22:17:11 | 作曲家・シューベルト(1797-1828
今日は 7/20佐伯周子シューベルトピアノソロ曲完全全曲演奏会第8回プログラムノートに(文章が長過ぎて)掲載できなかった文章を掲載する。


「機会の扉」は誰にも人生で1回か2回は開かれる。ただ気付かずに通り過ぎる人が大半。掴んだ人間は飛翔する


 誰が初めに書いたのかは私高本は知らないが、相当有名なフレーズのようで、新聞で梅田望夫が書いたのを読んだ記憶がある。

世界初の宮廷にも教会にもオペラハウスにも所属しない上、演奏家も教師もしない「純粋作曲家」=シューベルト


であった。モーツァルトもベートーヴェンも「演奏家」としてまず名を為した。先輩ハイドンは「まずはエステルハージ家のお抱え作曲家」として名声を得た後に、ロンドンで大作曲家として過ごした。

作曲家シューベルトの生活基盤=作曲した楽譜が「売れる」こと!


であった。作曲家シューベルトは1円(1クローネ?)でも高く売りたいし、出版社は1クローネでも安く買い叩きたい。出版社ディアベリを初めとする出版社に対してシューベルトが愚痴をこぼしたり悪態を付いた逸話は結構多く残っている(爆


 シューベルトが「悪口」を書かず、しかも死ぬ直前まで親身に付き合っていたウィーンの楽譜商は以下の2社。

  1. ザウアー&ライデスドルフ社 ← シューベルトの代理人を務めていた

  2. トビアス・ハスリンガー社 ← 「即興曲集」第1集出版の楽譜商


 ザウアー&ライデスドルフ社は「美しき水車小屋の娘」作品25D795 や 弦楽四重奏曲第13番イ短調「ロザムンデ」作品29/1D804 や 「楽興の時」作品94D780 を出版した。代理人を務めただけあって信頼は篤いのだが、唯一の欠点としてカネが無かったことはシューベルトの手紙からはっきりとわかっている。つまり「芸術に理解はあったが、支払いが充分満足には行かなかった」出版社である。死ぬ直前まで付き合っていたので、信頼は最後まであったようだが、重要な作品(例えばピアノソナタ)は「連弾ソナタ変ロ長調作品30D617」1曲しか出版していない上、この曲は全く評判にならなかったようだ。名曲だと思うのだが、、、


 トビアス・ハスリンガー社 は、ザウアー&ライデスドルフ社 とは比べものにならないほど、金銭の支払いが良かったようである。

最晩年のシューベルトが最高傑作「冬の旅」を第1部&第2部を出版している!


のだから。
 トビアス・ハスリンガー は、1787年生まれなので、シューベルトよりも10才年上。楽譜出版商シュタイナーの下で働き、1826年シュタイナー引退後業務を引き継いだ。楽譜商は今も昔もそんなにボロ儲けできる商売ではない。ウィーンには多くの中小楽譜商がひしめいていた「その時」に楽譜商を引き継いだのである。


トビアス・ハスリンガーが初めて出版したシューベルト作品=「高雅なワルツ」作品77D969


であった。1827年1月22日出版。ハスリンガーが独立した翌年の正月のことである。このシーズンは既に「ウィーン貴婦人レントラー」作品67 が1826年12月15日にディアベリから出版されていたので、異例の出版であった。(シューベルトは1シーズンに「連作舞曲集」は1作品しか供給しないのが、このシーズン以外は生涯通している。)
 「高雅なワルツ」作品77 が売れ行きが良かったのだろう、続いて「第4大ソナタ ト長調」の出版もハスリンガーは引き受ける。但し、この当時既に「ピアノソナタ」の楽譜販売に翳りが見えており、ハスリンガーはシューベルトと交渉の上「幻想曲」で出版しても構わない旨を取り付ける。なかなかの商才である。


 「幻想曲集作品78(=ト長調ソナタ)」の売れ行きも良かったようで、ハスリンガーはシューベルトに「委嘱作品」を依頼する。楽譜商から受けた「初のピアノソロ曲委嘱作品」であった。(舞曲についてはあった可能性は否定できないが、ピアノソナタや小品集では明らかに初めて)
 おそらく「ト長調ソナタと同じような多楽章曲」との依頼だったと推測できる。勢い込んで

D899/1第1稿+D916B+D916C を作曲 → ハスリンガーに提出


した様子。ハスリンガーは「売れる小品」が欲しかったのに、見た楽譜は「超絶技巧」のオンパレード。グッとこらえて

  1. 第1曲は、さらに作り込んで下さい。
  2. 第2曲と第3曲は差し替えて下さい。差し替え曲は「単純な3部形式で子供でも弾ける技巧範囲、かつ長調」

と言ったと推測される。
 こんなことを言った楽譜商は嘗てなかっただろう。シューベルトは思案して、ハスリンガーの指示通りの曲を書き直す。「即興曲集最終稿 = 作品90」である。ハスリンガーの思惑通り、21世紀の今日まで大人気の「シューベルトの顔」の曲集となった。


 シューベルトも「史上初の作曲だけして生活する作曲家」目指して悪戦苦闘していた。同時に

トビアス・ハスリンガーも「楽譜商としてウィーン1」を目指して悪戦苦闘した最初の年


だったのである。
 即興曲集第1集を出版した後、ハスリンガーは「冬の旅」第1部、「冬の旅」第2部、「白鳥の歌」を続けざまに出版し、シューベルトの名声を築く礎を作る。「冬の旅」については「出版のゴタゴタ」の話題が残っていないので、支払いも含め「シューベルトが満足」した様子だ。(もし満足していなければ「冬の旅」第2部は別の出版社から出版できる力をシューベルトは持っていた。)


 トビアス・ハスリンガーも「機会の扉」を創業1年内に開いた。シューベルトも「機会の扉」をこの時に開き、名作「冬の旅」「白鳥の歌」を残した。
 「歴史に if は無い」と言うが、もし

  1. 「即興曲集」作曲せず
  2. 「冬の旅」作曲せず
  3. 「白鳥の歌」作曲せず

だったならば、後世のシューベルト評価は相当に下がっていただろう。シューベルトとトビアス・ハスリンガーの努力が実ったことに感謝するばかりである。

トビアス・ハスリンガーはシューベルトを深く尊敬していて(「高雅なワルツ」を除き)自筆譜を全て保管していた!


ことを特筆しておく。「即興曲集第1集第2稿」「冬の旅」「白鳥の歌」は全て自筆譜が後世にのこされたのである。 
コメント
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