シューベルトは、ある時期に「特定のジャンル」に集中する作曲家
であった。若い頃から順に追って行く。
1812.09 - 1813.11 : 弦楽四重奏曲の時代 D32,D36,D46,D68,D74,D87
初めに来たのが、リートでもピアノ曲でもなく、弦楽四重奏曲 なのだ。父と2人の兄とシューベルト自身が組んでの「家庭弦楽四重奏団」が存在していたことが大きい。シューベルトの音楽が、「声部進行に満ちている」のはこの時期に自分自身で習得したこと。サリエリ の教えよりも、影響が大きい。
1814.10.19 - 1815.10 : 単独リートの全盛期 D118「糸を紡ぐグレートヒェン」 - D328「魔王」
ミサ曲第1番D105 がウィーン「リヒテンタレル教会」にて世界初演された1815.10.16がシューベルトの「プロ作曲家の原点」となった。その後3日掛けて「感動」を表現したのが「糸を紡ぐグレートヒェン」。その後「魔王」まで、ドイツリートを作曲しまくった。しかも名曲がいかに多く散りばめられていることか!!!
1815 -1825.04(除く1817年) : 「シューベルティアーデ時代」=「ドイツ舞曲全盛期」 D145 - D844
「シューベルティアーデ」は「シューベルトの友人たちの集い」である。先日の2012.07.11「佐藤雄太+佐伯周子:美しき水車小屋の娘」のプログラムノートには記載したのだが、シューベルトは「歌の伴奏」か「踊りの伴奏」でいつもピアノを弾いていた。「糸を紡ぐグレートヒェン」D118 の直後から、友人たちが集い「シューベルティアーデ」が開催されるようになった。求められれば、「新作舞曲」も少なからず作曲した > 旧作を混ぜたりしながら。
終焉は、ピアノソナタ ハ長調D840「レリーク」作曲と同時に到来した。その後、シューベルトの活動の場は、「友人たちのサロン」から「ウィーン音楽界の表舞台」へと移ったからだ。
1817.03 - 1817.11 : ピアノソナタの時代 D537,D557,D566,D567,D664,D459A,D571,D575
「シューベルティアーデ」を重要視していたシューベルトが「1年だけシューベルティアーデのためのドイツ舞曲を作曲しなかった年」が1817年である。「ピアノ」を「舞曲伴奏楽器」としてではなく「ソロソナタのための楽器」として、改めて向きあった年。この年のピアノソナタ集中作曲は他に類を見ない。まだ、出版が「脳内で想定できる状況にまるで無かった」ために、「シューベルト自身は作曲完了!」と思って、「ソナタ形式の展開部終了」までで放置されている楽章があったり、「楽章順が正しく並べていない」があったり、無関係な曲と組み合わされた曲があったり、後世から大いに誤解を産んだのもこの時期の作品><
1818末 - 1820.10 : オペラの時代 D647,D137,D689,D644,D701
シューベルトは「ドイツリート作曲家」になりたい、と思ったことは、最少に言って、「美しき水車小屋の娘」作曲着手以前は無かったように感じる。「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」「レルシュタープ歌曲集」「ハイネ歌曲集」は相当な自信作だったが。
では「どんな作曲家になりたかったか?」と問われると、「オペラ作曲家」「教会音楽作曲家」「交響曲作曲家(弦楽四重奏曲やピアノソナタを含む)」だったようだ。
「オペラ作曲家」としての『外部評価が最大だった時期 = この時期』であり、生涯2曲しか生前上演されなかったオペラは2曲ともこの時期の作品であり、同じ時期に上演された。(D647,D644)
「シューベルトファン」の私高本の耳でも「シューベルトオペラ」は手本とした「モーツァルトオペラ」の水準には程遠い(爆涙
・・・が実際の状況。間違って誤解して頂きたくないのは、「単独リート」と「単独舞曲」以外は、上記の「・・・時代」には最高傑作は産まれていないこと!
弦楽四重奏曲 も 連作舞曲 も ピアノソナタ も オペラ も、「中期以降の作品」の方が出来が良い。だが、この「集中時代」作品には「若き血潮を注ぎ込んだ魅力」が強い。
「20才のシューベルト」の「プレトーク」は私高本が久しぶり行ないたい
と 佐伯周子 に告げたところ、頑強な抵抗に遭っている(泣
明日からも続編書きまっせ!