詩人PIKKIのひとこと日記&詩

すっかりブログを放任中だった。
詩と辛らつ日記を・・

「アナキスト詩人」で検索

2011年06月23日 | 
「アナーキスト詩人」で検索したらとても素晴らしい詩アーカイブのサイトがみつかった。
それは「詩の出版社 ミッドナイト・プレス」ーhttp://www.midnightpress.co.jp/poem/


    離れてゆく秋  萩原恭次郎

鴎はシグナルのやうに飛び交ふ!
海底に私は濡れた火薬として沈む!
赤いマストは折れてドテツ腹を突き通してゐる!
君の心臓には黒い無為の切手が刷つてある!
錨の上らない程の海の憂愁は
幾匹もの魚を胸に泳がせる!
寒流である―――――――● ● ●
鋏で切られてゐる空だ!
握手にのみ充満と爆発はひそむ!
すでに秋は海底から熱情に錆びをあたへる!

「さやうなら!」

 *萩原恭次郎(1899-1938)の『死刑宣告』(1925年/大正14年)は、その内容において、また、当時のアヴァンギャルドの画家たちの協力により作られたその造本において、当時の人々を驚かせたようだ。その出版記念会は喧噪狼藉の極みに達したという。萩原恭次郎は、岡本潤、川崎長太郎、壺井繁治とともに、1923年に詩誌「赤と黒」を創刊した。その表紙には、「詩とは? 詩人とは? 我々は過去の一切の概念を放棄して、大胆に断言する! 『詩とは爆弾である! 詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!』」という宣言が印刷された。もとより、恭次郎の詩に、アナーキーなもの、ニヒリスティックなものを読みとることはたやすいことだが、「われわれの美は、欲情は、何処にさすらふか?」という一行が見出される『死刑宣告』の「序」は「深痛な情感性」(萩原朔太郎)に満ちていて、読ませる。上記の「離れてゆく秋」、9行目の「握手にのみ充満と爆発はひそむ!」から一行の空白を置いて書かれる最終行「さやうなら!」を読むとき、その「序」に書かれたことば、「詩句を、一行を、散文の如く重荷を背にして疲れしむなかれ! 次行まで叮嚀に運搬せしむ役を放棄せしめよ! 各行各行に独立せしめよ!」を思い出す。(文責・岡田)

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    断片 20  萩原恭次郎

海のやうな量の中に小さい鼓動が刻まれてゐるのだ
知らぬ間にあたたまりゆく海水があつたのだ
その水が沸騰するやうに熱して来たのだ
何時の間にか手も指し込めなくなつてゐるのだ。

 *萩原恭次郎(1899-1938)の『死刑宣告』は、日本近代詩のなかで、記憶されるべき一冊の詩集であろう。一篇ごとに版画と組み合わせたそのヴィジュアルの一端を日本現代詩大系(河出書房)において、その一端を見ることができるが、実際にその詩集を手にとってみたいと思わせるインパクトがある。その「ヂレツタンチズム」に限界を認めつつも、「もし芸術品に於て、その表現に示されたる内容以外に、或る眼に見えざる〝形而上の内容〟という如きものがあるとすれば、それが恭次郎の詩の重要な哲学である」と評したのは同郷の萩原朔太郎(1886-1942)である。その朔太郎が「気品の高い崇高な風貌を以て示されて居る」として、『死刑宣告』以上に評価したのが第二詩集『断片』。恭次郎はそのあとがきで「断片は今日より明日へと自分を築こうとして自分の身体にうち込んでいた一本一本の釘であるとも云える。これは日記以上に自分にジカなものの断片〔かけら〕かも知れない」と書いている。なるほど、我々はそこに「ジカなものの断片」を見るのだが、そのなかに上記のような「形而上的」断片を見出すとき、詩の謎、その深さを覚える。(文責・岡田)

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    襤褸は寝てゐる  山之口貘

野良犬・野良猫・古下駄どもの
入れかはり立ちかはる
夜の底
まひるの空から舞ひ降りて
襤褸〔らんる〕は寝てゐる
夜の底
見れば見るほどひろがるやう ひらたくなつて地球を抱いてゐる
鼾〔いびき〕が光る
うるさい光
眩〔まぶ〕しい鼾
やがてそこいらぢゆうに眼がひらく
小石・紙屑・吸殻たち・神や仏の紳士も起きあがる
襤褸は寝てゐる夜の底
空にはいつぱい浮世の花
大きな米粒ばかりの白い花。

 *山之口貘(1903/明治36年?1963/昭和38年)の『思辨の苑』は1938年にむらさき出版部から刊行された。この詩集には、佐藤春夫の序詩、金子光晴の序文が収められているが、「佐藤春夫氏の玉稿は、五年も前に頂戴してあった。/金子光晴氏の玉稿もまた、三年前に頂戴してあった」と、詩集の「後記」で貘は書いている。佐藤春夫がその「序詩」に「南方の孤島から来て/東京でうろついてゐる 風見たいに」と書いたのは1933年12月28日。当時のことを貘は「大正13年(1924年)の夏、着のみ着のままで、詩稿だけを携えて、ぼくはまた上京、昭和14年(1939年)の五月ごろまでの大半を、一定の住所を持たずにすごした」と書いている。
 その当時がどのような時代であったか、ざっと振り返ると、1931年満州事変、1932年満州国建国、五・一五事件、1933年国際連盟脱退、1936年二・二六事件、1937年日中戦争、1938年国家総動員法……。日本の資本主義、帝国主義の膨張は、秩序から疎外され、脱落する多くの不定職者たちを生んだ。沖縄から上京してきた貘もそのひとりであった。「襤褸は寝てゐる」は、「詩稿だけを携えて」「一定の住所を持たずにすごした」貘がくぐりぬけてきたいくつもの「夜の底」を浮かび上がらせる。金子光晴はその「序文」で「貘君によって人は、生きることを訂正される」と書いているが、山之口貘の詩を読んでいると、一度この人に会いたかったとの思いを禁じえない。(10.3.8 文責・岡田)

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    幻の家  佐川ちか

料理人が青空を握る。四本の指あとがついて、次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる空の看守。日光が駆け出すのを見る。
たれも住んでないからつぽの白い家。
人々の長い夢はこの家のまはりを幾重にもとりまいては花瓣のやうに衰へてゐた。
死が徐ろに私の指にすがりつく。夜の殻を一枚づつとつてゐる。
この家は遠い世界の遠い思ひ出へと華麗な道が続いてゐる。

 *『佐川ちか詩集』(1911/明治44年?1936/昭和11年)は、「詩と詩論」「マダム・ブランシュなどに詩を発表していることから、モダニズム詩人のひとりと考えがちだが、あるアンソロジーで、佐川の「緑」という詩を読んだとき、その「私は人に捨てられた」という終行を読んだとき、「モダニズム詩人」だけでは括れないものがあると思った。今回、手元にある『佐川ちか全詩集』(1983年刊)をあらためて読んで、上記の詩に惹かれた。シュルレアリスティックでありながら、妙に生々しい。「死が徐ろに私の指にすがりつく」という一行は、佐川ちかの通奏低音であるようだ。この詩は1932年に創刊された春山行夫編集の「文学」第一冊に発表されたが、当時から「医薬に親しむ」身体だった佐川は、その4年後に24歳の若さでこの世を去った。森谷均の昭森社から『佐川ちか詩集』が出版されたのは、その年(1936年)の11月だった。 (09.12.07 文責・岡田)

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    Sensation  金子光晴

――日本は、気の毒でしたよ。(僕はながい手紙を書く)燎原〔やけはら〕に、
あらゆる種類の雑草の種子が、まづかへつてきた。(僕は、そのことを知らせてやらう。)

地球が、ギイギッといやな軋〔きし〕りをたてはじめる。……山河をつつむウラニウムの
粘つこい霧雨のなかで、かなしみたちこめるあかつきがた、

焼酎のコップを前にして、汚れた外套の女の学生が、一人坐つて、
小声でうたふ――『あなたの精液を口にふくんで、あてもなく

ゆけばさくらの花がちる』いたましいSensation〔サンサシオン〕だ。にこりともせず
かの女は、さつさと裸になる。匂やかに、朝ぞらに浮んだ高層建築〔ビルデイング〕のやうに、そのまま

立ちあがつてかの女があるきだすはうへ、僕もあとからついてあるいた。
日本の若さ、新しい愛と絶望のゆく先、先をつきとめて、(ことこまごまと記して送るために。)

 *金子光晴――と書いただけで、心騒ぐものを覚える。この、いまなお語り尽くすことのできない詩人が蔵している深さはなにに拠るものだろう。上記の詩は、詩集『非情』(1955年)に収録されている。その序に「正直なところ、僕は迷つてゐるのだ。この詩集は、僕のみちくさ(4字傍点)のやうにみえるかもしれないが、よくよんでもらへば、人間とのかかりあひについて、どんな剣呑な状態に僕がさしかゝつてゐるかわかつてもらへるとおもふ。」とあるこの詩集には、印象に残る詩が多く収められている。可能であるならば、三カ月ほど南の島で、金子光晴全集だけを読んでいたい。そして、その三カ月後を夢想する。(文責・岡田)